Beauty & Chestnut

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教育の今を読み解く 1(教師教育研究フォーラム@早稲田大学)

先日、社会学の一環として、「教育の今を読み解く」というフォーラムに参加してきた。私が学生だった時代はそう遠くなく、気持ち的にはまだまだ高校生のものの、今教育の現場ではどのような変化が起きているのか。特に専門を持たない私が、いつものごとく雑食家としての嗜好性を発揮して聴講してきた。

すぐれた教師、というものは、どのように育つのだろうか。まずは、何を以って「すぐれた」と定義するかについて述べよう。(ちなみに、述べたのは私ではない。)

「豊かな知識・造詣」、「対人的なある種の直感(直観)力・洞察力」、「経験に基づくノウハウ」これらが互いに結合し、全体としての意味づけが自己の中で行われており、かつ魅力的なパーソナリティを備えていることも重要である。さて、これらの要素を形成するのに欠かせないのが体系だった知識としての「科学知」と、現場で得た「経験知」である。ここでの「科学知」は「教育体系」や「指導要綱」を意味し、成文化されているので学びやすい。かたや「経験知」の方はそうはいかず、流動的で複雑で、さらに人に伝えられにくく、なかなか学ぶのが難しい。さて、すぐれた教師と呼ばれる人たちは、どのようにして「経験知」を得たのだろうか。

話は少し遡るが、1970年代は教師が育つのには良い時代だったそうだ。私はこの時代に生まれてなかったので検証しようがないが、何が良かったのかというと、すぐれた教師をお手本にしやすかったらしい。新任教師達は身近なところで彼らの教育に対する姿勢や構えを感じ取り、彼らの失敗の乗り越え方を参考にし、指導法を盗んで成長することができたのだ。これには当然、お手本にする教師との出会いに恵まれていて、かつ、盗む側も独善的なスタンスであってはいけない、という条件付である。さらには、すぐれた教師、新任教師が自分の業務だけに追われる、という状況でなかったのも大きな要素である。

さて、現代はどうなのだろうか。
どうやら、教師は多忙らしい。さらに悪いことに、新しい教師の採用が減ったせいで、教員の階層化が進んでいる。こうなると世代間に開きが生じて、タテのつながりが希薄化し、さらには常勤と非常勤の格差が出てきて教員間でもドライな関係になってしまい、チームプレイが以前に比べて難しくなってきている。トドメとして、部活のアウトソーシング化(学校のスリム化論という)も進み、教員間のコミュニケーションのとりにくさが増長している傾向にある。

つづく。