Beauty & Chestnut

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茶の本 岡倉天心(覚三)

私は家ではあまりお茶を飲まない。コーヒー党である。
が、しかし、コーヒー飲んだからといって目が覚めるわけでもなく、眠りに入るまえのナイトキャップ的一杯となってしまう。これから勉強だ、という時も然り。結局のところ、現代においては、嗜好品はリラックスする事が第一の目的であることが求められているのかも知れない。しかし、よくよく考えてみれば、いつから「嗜好品」は「芸術」から独立したのだろう。「嗜好品」を「芸術」の領域に高める事は、可能なのだろうか。

本書、茶の本は明治時代の美術家である岡倉天心(本名:岡倉覚三)による、お茶から始まり花や道教、禅道、また、芸術鑑賞について書かれた本である。よくもまぁ、こんな薄い本であるにも関わらず、芸術、とりわけ茶道について深く述べられたものである。しかも、原書は英語で書かれたもので、日本で出版するのが目的だったわけでないところがまた乙である。さて、今夜は久しぶりにお茶でも沸かして、味わいながら更新しようと思う。

彼によれば、お茶とは倫理であり、衛生学であり、または経済学でもあり、はたまた精神幾何学でもあるらしい。たった一杯のお茶を点てる茶道には、多くのものが凝縮されている。あらゆる無駄な重複を避け、そして不完全なものを崇拝するのが茶道の要義である。さらに、ひそかに善行を行い、偶然にそれが現れることを何よりの楽しみとする精神が必要である。美を見出さんがために、美を隠す。これが茶道のコアであるようだ。

この、一見地味でつまらなさそうなもの(失礼)は、実は故意に不完全な状態されているに過ぎない。一切の装飾を欠くことから「数奇屋」を「空き屋」という字を当てて書くことがあるそうな。(ちなみに、ここで言う「数奇屋」とは茶室を意味し、時には「好き屋」という字も当てられることがある。) そしてこれを完成させることが出来る唯一のものが「想像力」である。まさにこれこそ、インスタントには味わえない、いや、味わうべきでない真の芸術ではないだろうか。そして、真の美を見出すためには「不完全」を心の中に完成させておかなければならない。極みへの道のりは、果てしなく長く、遠い。

さて、誰もが一度は名前を聞いたことのある千利休だが、彼は独自の感性を持っていた。彼は自分が良いと思うものだけを生涯求めつづけた。世間の好みや流行に媚びない勇気を持っていた。現代でも変わらず、自分の価値観や感性を備えていない人は周りの好みに合わせてしまい、挙句、それは自分の好みであるという錯覚に陥ってしまう人はたくさんいる。これは専門家、素人を問わず起こりうることで、なんだか投機筋によって価格が急変するレアメタルを連想してしまう。どんなに「世の中は情報化社会になった」と言われていても、世間とは、私が思っている以上に浅はかで閉鎖的なものなのかも知れない。

ここからは本書から離れ、完全にオフレコになってしまうが、私たちが「個」として独立して生きるためには、何が必要なのだろう。周りに流されず、自分の価値観を持つことが出来るためには、何をすればよいのだろう。ふつつかながら、それについて私の考えを述べさせてもらうと、「考えることを放棄しないこと」と「それでいいんだよ」と受け入れてくれる存在(または環境、もしくは適度な傲慢さ)だと思う。考える事を放棄した瞬間、その人がどんな身分であれども、奴隷と堕する。奴隷制が長く続いたのも、奴隷が奴隷であったことが原因の一つであったに違いない。やめよう。奴隷、という漢字は見ていて気分が悪くなる。私はこの字が嫌いだ。

で、そんなことを述べていたり、かかってきた電話に出ていたりしたら、先ほど沸かした宇治茶が完全に冷めていた。お茶は、温かいうちに専念して飲むものである、という事も追記して、終わろうと思う。