Beauty & Chestnut

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生物から見た世界 (ユクスキュル/クリサート)

京都旅行でやった舞妓体験の写真が先日手元に届いた。どこの美女かと思えば、私である。美術館で良い作品があると、私は何十分もそこに立ち止まるが、この素晴らしい写真達も同様に私を強く惹きつけて放さない。(すいません、これ、単なる前フリなんで、大目に見てください。そしてもう少し付き合って。。。)

・・・と私は思うのだが、「別にそれほどでも・・・。」な人もいるだろう。そして残念ながら、ごくごく一部はそうであろう。私が見る私の舞妓写真と、他人が見る私の舞妓写真は(視力の差はあれど)同じように瞳に映る。しかしその後、「マスコミはもっと私を採り上げるべきだ。」とか「ぜひリアル舞妓に!!」とか「いや、ハリウッドデビューしかない!!!」と思うか、「ふーん。」と思うか人それぞれ。これは、感性や好み、何が美しいかを判断する価値観の相違にすぎない。同じものを見れば、個人間では価値観のフィルタのみが左右する。

しかし、種族が異なれば、差異は価値観だけで止まらない。いや、むしろ価値観は関係ない。同じものを見ても、同じように見えないのである。目がなくて光を皮膚で感じて空間を判断する生き物、狭い視界で全てが湾曲して見える生き物、もはやそこに物体があるかどうかのレベルでしか見ていない(見えていない)生き物。それぞれが異なった視空間を持って生活している。(もちろん、同じ種族間であれば同じように見えているはず。)時間に対しても異なる意味を持ち、人間にとっての1分と、他種族にとっての1分間はまったく違う価値をもつ。人間同士でも(時間に対しての価値が違う故にかどうか知らないが)、待ち合わせに常習的に遅れてくる人がいて、まったく困る限りである。

さて、本書の冒頭ダニの話がある。交尾を終えたメスは木に登り、そこで温血動物がやってくるのをひたすら待つ。(交尾を終えたオスはどうする/どうなるのだろう、という疑問はナンセンスかも知れない。自然界のオスは、結構不憫である。) で、温血動物が来たことをどうやって感知するのか。じーっと見張っているわけではなく、ただ哺乳類から分泌される「酪酸」の匂いが狩りの開始の合図になる。言い換えれば、シグナルである。木から飛び降りたメスは、運がよければ哺乳類の血を頂くことができるが、ここでまた、「自分が無事に哺乳類の上に落下できたのか」を判断するのは「温度感覚」のみであるらしい。ターゲットの付着に失敗したメスは、再び長い期間、酪酸の匂いがするまで待機する事となる。(人間、昆虫問わず、自然界のメスは共通して根気強い。)

中には18年間も温血動物が通るのを待っていたダニもいるらしい。その間のメスの体内にある卵もきちんと保護されていれ、吸血の後に産卵されるのを待っている。この待機中の卵は「生きている」状態とは言い難いが、吸血後にちゃんと生まれてくるので「死んでいる」わけではない。

待機中のメスの世界は「酪酸」の匂いと「温度」が全てである。世間は不景気だろうが、Shu Uemuraのクリスマス限定のアイシャドウが即日完売しようが、気がつけばジムノペディが解散していようが、ダニには関係ないし、認識されない。この感覚、すなわち、その生物にとって受容される刺激のみの世界を環世界という。ついでに、不景気だったりShu Uemuraのアイシャドウやジムノペディ解散の事実は私にとっての「知覚標識」である。

酪酸」と「温度」で行動を行うメスを観察すると、まるで機械のような印象を受ける。感覚器官と実行器官が存在し、制御装置によって互いにつながっている。特定の刺激のみ受容し、行為を実行する。ただ刺激を受けて反射するのみで、どこにも操作系が存在しないではないか、と。これが生理学者の「生物は機械である」と考える所以である。しかし一方で生物学者は「どこをとっても機械操作の性格が働いている」と主張している。刺激とは客体に生じるものではなく、主体によって感じられるものである、というのが根本にあるらしい。そして、この本の作者、ユクスキュルは、生涯、生物機械論が大嫌いであったという。しかし、こればっかりは実際にダニになってみる以外、わからないような気がするが。

全体を読み終えてみて、私が思ったのは、私が知覚している情報というのは加工品にすぎないのだな、という事だ。事実は何一つ、純粋にそのまま認識できていない。目に見える風景、時間の感覚、これら全て、処理/または抽出された情報である。存在するけど、見えていない/認識できていないものがあるのは明らかであり、人は可能な限り機械を使って測定、感知しようとしている。もしかしたら霊魂もあるのかな、なんて一瞬思ったが、それはまた後ほどゆっくり考えてみたいものである。