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新・建築入門 (隈研吾)

それぞれの時代に、その時代を代表するアイコンのようなものが必ず存在する。絵画や、音楽、思想に文学、そして建築もまた然り。それらの背後から権力の変遷を読み取ることができる。建築ほど権力を表す装置として素直なものは無い。思想や絵画、文学はその時代の権力を背後に発展し、そして必ず反・権威/権力としての思想や絵画、文学が誕生し、時代は変わっていく。たとえば、「テロへの報復」という思想には「反戦」という思想が生まれ、戦争賛美文学には反戦を訴える文学が、絵画もまた同様である。あまり詳しくないので何ともいえないが、きっと音楽にも時代の権力に反抗するものがあるはずだ。(あぁ、そうそう。ちょうど日本で戦時中にジャズを歌うような感じ。)しかし、建築は過去(その過去には「つい最近、ちょっと前」も含む)の様式を否定することはあっても、現代という時代・権力そのものを批判することはない。せいぜい、過ぎ去った後に「帝冠様式ってファシズムっぽいよね」と言うぐらいである。あぁ、建築愛好家って穏やかな人たち。(ちなみに、帝冠様式=「必ずしも」、または、「その本質」はファシズムではない。)

建築史を簡単に触れてみればはっきりわかる。歴史に残る世界の名建築というのは必ず権力者によって作られたものだ。教会や王族が多大な権力を駆使し、建築文化を築いてきた。権力の誇示であったり、民衆の支持を得るためだったり、「すばらしい建築」=「権力者の意図」「権力者しか所有できない」である。言い換えれば、良い建築の持ち主が、その時代のリーダーだったのである。そして、そんな良きパトロンがあって、建築家達は芸術性を高めることができた。

しかし、近代の到来により、産業革命や民主主義、資本主義社会の台頭を経てから一般市民が力を得るようになり、必ずしもその構図は成り立たなくなってきた。現代を生きる私たちは、お金さえあれば、王侯貴族のような建築物を所有することが可能になった。建築から「特権性」が消失した。それが良いことか悪いことかは別として、一つに絶対権威の崩壊が建築によって読み取れる。それでも、反権力装置としての建築は未だに姿を現さない。

本書は、建築入門と銘打った「建築”哲学”」入門の書である。隈研吾という人物については良く知らないが、少なくとも建築セミナーなどで講演している「いや〜、最近、公共事業が減っちゃって、業界不振で困りますわ。」なんて言って笑いを取っている自称建築家の先生方とは全く別物である。(本当に、こういう自称建築家が世の中には多いこと!反権力装置としての建築が生まれるどころか、「建築」が完全に権力に隷属してしまう日も近いかも知れない。一度だけ、何かのセミナーで「どうすれば都市計画が実現すると思いますか」と質問をふっかけたら、「政府による圧力ですね」と平気な顔して答えた建築家がいた。困ったものだ。)

さて、人類の建築史はいつから始まるのだろうか。多くは「ギリシャ」という解を出しているが、隈研吾は人類の住居としての建築として「洞窟」から建築史は始まっている、と答えている。まれにストーンヘンジやピラミッドまで遡ることはあっても、洞窟から建築史を語り始めるものはまずいない。洞窟だから、つまりは旧石器時代である。そういう事情により、絵画も以前は建築であった。なぜなら、絵画の歴史は壁画に始まり、壁画は洞窟に描かれたからである。これには脱帽した。そうか、絵画は建築だったんだ。

壁画から分離して独立した絵画はまた、バロックの時代に建築として戻ってくる。いや、バロックは内部空間全てが建築になるから、絵画だけが建築ではない。彫刻も、その中で演奏される音楽も、是みな建築である。その、「すべてが建築」精神が一旦モダニズムで消えかかったように見えたが、再びポストモダン建築で復活している。ハンス・ホラインの「ノン・フィジカル・エンヴァイラ・メンタル・コントロール・キット」という建築作品と呼んでいいのかわからないけれども、(一応)建築作品と呼ばれている1個のピルは、閉所恐怖症を治す薬として、主体を取り囲む環境全ては建築である、と主張している。嗚呼、建築文化百花繚乱!現代の建築事情は、一部で退廃しつつ、また一部はとてつもなく面白い事になっている。やはり建築は興味深い!そして、そんな歴史(建築史)を作っているヒト自体もまた、私には興味の対象なのである。