Beauty & Chestnut

栗野美智子オフィシャルウェブサイト(笑)へようこそ。ツイッターもやってます。@Michiko_Kurino

真夜中の独り言。哲学とか、日本文化と輸入学問についてとか。

お給料が入ったので、仕事帰りに書店に立ち寄る。もうちょっと掘り下げて哲学を勉強したいけれど、(訳された)原書は難しいので、NHK出版から出ている哲学者の個別解説書のようなものを買い込む。デリダベルクソン、メルロポンティ。メチエから出ているニーチェと、ドゥルーズに関する書籍も購入。英米系の精密さを求めた哲学にも触れておくべきだと思ったが、やはり興味は大陸(フランス)の方に向いてしまう。

ところで、現代哲学は現代思想との境目があいまいになっているような印象を受ける。事実、哲学者が思想家としての顔を持つ場合も多い。哲学というのは本来、あらゆる学問の基盤である。ヘーゲルが偉大だったのは、彼が世の中に与えた影響がかなりの多岐に渡るものだから、という理由もあるのだろう。とにかく、今、個人的に哲学が面白い。

書店に来ると、まずは興味のあるコーナーに直行するけれど、それだけじゃ物足りない。全然知らない分野の本も読んでみたいし、「え、こんな学問あったの!?」といった感じの、知らない分野の発見が面白くて仕方ない。私は人の顔と名前を覚えるのに大変苦労するが、なぜ覚えられないのかをパターン認識の側面(具体的には機械による顔認識がどのように行われているかを調べて、自分との比較を行う事)から考えてみたいし、脳科学や心理学の側面からもアプローチをかけてみたい。機械学習のしくみと自分の学習のしくみを比較してみたいとも思うし、まぁ何ていうか、私は私自身に興味があるナルシストなわけである。そのうち”高等中二病”と名乗りたい。

丁度ホワイトデーギフトでお菓子を沢山頂いたので、それをつまみながら夜更かしして読む。至福のひと時である。NHK出版の解説書は大雑把に内容を確認してみたところ、若干物足りなかったものの、全部揃えたくなる要素がある。マーケティングがうまいのか、私が単純なのかはわからない。

そういえば、丸山真男がその著書「日本の思想」で日本の社会もアカデミーの環境も、タコツボ型であると嘆いていた。それに対する概念としてササラ型が挙げられていて、学問というのはその国の歴史と共に発展し、細分化・個別化しているものの根っこはつながっている、とのことだ。明治以降、日本は西洋より個別化された学問の輸入を行った。それらは根っこ部分に該当する基底となる思想や歴史、伝統を切り離したもので始めからタコツボ型になる運命だったのだと。

確かに根っこのないものは不安定であるが、日本の文化というのは”受容”にあるのではないだろうか。日本文化は常に中国や近隣からの文化の受容によって発展してきた。漢字を真名、ひらがなを仮名というのは、中国の文化をお手本としてきたからだとは言えないだろうか。神道に人格を持った神が登場するのも、仏教の”人”が仏になる、という思想を受容した結果ではないだろうか。(←あくまで素人である私の推測。八百万の神という発想は、自然現象そのものに偉大な神性のようなものを見出した事にあると思うし、自然現象に人格を見出したとは考えにくいような気がする。)

“学問が輸入された事”自体は問題ではない。輸入されたものの扱い方を、現代人は忘れている事に問題があるのではないのだろうか。その結果としてより一層のタコツボ化が進み、弊害としてツボ外のコミュニケーションを取ろうとしない人が多数を占めるようになった。時折、世の中は問題を沢山抱え込んでいるから専門家による分業が好ましい、といった主張を見かけるが、専門家だからといって専門外の知識を求めないのは学術的怠慢だと思う。理系だから、文系だからといった言い訳で追求する姿勢を放棄するのも好ましくない。何かの専門を持つことはとても大事だけれど、興味の対象は常に外にも向かわせておきたい。

さて、そろそろ寝よう。