Beauty & Chestnut

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愛に就いて。

イタリアでパートナーがHIVに感染している事を知っていて関係を持った女性が少なくとも30人いるらしく、社会問題として取り上げられていた。
(http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090319/erp0903191024002-n1.htm)

彼女達の言い分は「愛を分かち合うため」だそうだ。相手の苦しみを自分も一緒になって背負いたい。まるで母親がわが子の怪我や病気に対して「私が代わってあげたい」というものに似ている気がする。実際に代わってあげることが出来ないなら、せめて一緒に苦しみたい。なんと情熱的で盲目的で破滅的な耽美さを伴った愛だろうか。そして、良くも悪くも刹那的でもある。こういったニュースに触れたとき、国民性がどうのこうのやら、日本女性はこうで海外の女性はこうである、といった言説がいかにチャチで本質を捉え切れていないものであることを痛感するのである。「イタリア人女性は情熱的だなぁ。」というのは全くのお門違いで、日本人女性であれアメリカ人女性であれ、関係ないのである。その心はあくまで「相手の苦しみを自分の苦しみとして共有したい」という母性に基づく精神で、国民性は関係ない。(私は「母性に基づく」と言ったが、「母性そのもの」とは言っていない。あくまで「母性」から派生した愛の形態の一つである。)

しかし、愛の分かち合い方が必ずしも自分自身までHIVに感染する必要があるかどうかは、私は懐疑的であるし、考え方や価値観の違いといえばそれまでであるが、やはり生まれてくる子供までHIVに感染してしまうリスクがあることを考えていない(・・・とは言い切れないが。)のは、浅はかではないだろうか。子供は親を選べない。もちろん、私に批判する権利はないのは承知であるが、まんざら当人間のみの問題ではないのである。HIVに感染した後にパートナーと別れてまた別のパートナーにめぐり合った場合、相手の苦しみを背負いたいと願った女性が自分の苦しみを相手に背負わせたいと思う場合は稀ではないだろうか。そしてやはり、そういうわけで必然的に子供を持つことに消極的になってしまうのは不幸以外何と言おうか。

ところで一方、あまり勇ましくない(が賢明な)のが、逆の場合に男性の取る行動である。パートナーがHIVに感染していたら/感染している事を知ったら、関係を絶つケースが多いというのはいかなることか。余談だが、「雨月物語」という小説の「蛇性の婬」という章が私は嫌いである。あらすじを簡単に説明すると、ある男が美女と出会い婚約するも、その美女は実は蛇(邪神)であったため調伏する、といったお粗末なものである。なんと度胸のない男であろうか。谷崎小説だったら、男は美女に対する畏怖の念を抱きながらも邪神であろうが何であろうが、彼女を女神として崇拝する物語が展開されるであろう。これもまた、好みの問題であるが、私は「蛇性の婬」の潔癖症の男よりも谷崎小説の倒錯した男の方が好きだ。話がずれた。小説を持ち出しても仕方がない上に、この件とは全く関係が無い。

とはいえ、こういった場合の男性の取る行動は、確かに正解であると言える。少なくとも、(感染していなければ)この後に出会って関係をもつ女性と、生まれてくる子供にHIVを感染”させる”可能性はない。そもそも、よく考えれば、ここでの「関係を絶つ」という言葉が何を意味しているのかは定義されていない。単純に性的関係のみを絶つのかも知れないし、もしかしたら恋人という関係を絶つのかもしれない。如何せん、メディアの与える情報は尾ひれが付いたり、曲解・誤解を招きやすいものなのである。しかしながら、同じ状況に遭遇したときに男女のとる行動が(感染者の母数と比較して、かなり部分的な情報であれど)こうも反対なものなのかと思うと、いささか複雑な心境になるのは私だけではあるまい。