Beauty & Chestnut

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尼崎にて

大阪といったら、新世界とか道頓堀を思い浮かべる。兵庫といったら、たぶん神戸の洒落た町並みや中華街を思い浮かべる。それ以外の大阪や兵庫の地名を聞いても、ピンとこないし、たとえ地図上ではっきりと境界線がひかれていても、そこは非常にファジーな領域である。私は地理が苦手だ。しかし、県庁所在地がどこであれ、県境がどこら辺であれ、実は西宮や尼崎は大阪府ではなく兵庫県であったことであれ、そういったものは取るに足らないことである。

大阪港を出て尼崎の某駅で降りた。再開発により、ずいぶんと便利な町になった(らしい)が、如何せん、無表情な町である。便利さと経済性のみを追求した結果、「尼崎」という土地の持つ歴史とは切り離されてしまった。もとより、どのような歴史があったのか、私は知らない。ただ、降りて辺りを見渡した瞬間、無表情な町だという印象を受けた。右側にたつマンションと、左側にたつマンションを入れ替えてみても、何の違和感も無い。モジュール化した住宅。この辺り一帯のマンションをデザイン(設計)したのは同一人物であろうか、と思いたくなるほど。住む人もまた同様に、必要に応じて移動していく。前にこの部屋に住んでいたのは親とか祖父母ではなく、赤の他人。過去にどのような人たちが、どのように生活をし、どんな物語があったのか。「住まい」という言葉から、特別性のようなものが消失してしまった。消費物としての住宅街。便利さ、経済性、にあと一つ何かが加わっていれば、もっと違う町になっていたかもしれない。

駅の改札を出て、花屋を探した。心当たりはなかったが、幸い、すぐに見つかった。駅周辺には必ず花屋があるものである。ひまわりを使ったアレンジメントを作ってもらい、病院へ。部屋の番号は事前に聞いていた。入った瞬間に、祖母が私の名前を呼んだ。思っていたより、重篤ではなかった。ただ、一回りか二回りほど、小さくなったような気がする。もし向こうから声を掛けてくれなければ、私はすぐに祖母だと気付かなかっただろう。やはり、少し悲しい。持ってきたアレンジメントを、傍のデスクに飾る。先週母が持ってきた、こちらもまたひまわりを使ったアレンジメントは、まだ奇麗に咲いている。他にもいくつかアレンジメントがあった。親族は関西に多く在住しているので、お見舞い客には事欠かないらしい。サボテンを持ってきた親戚がいるとか、いないとか。さすがにそれは片付けられていたようだが。とりとめもない雑談をしていると、夕食の時間になった。なぜか私も病院食を頂くことに。初めて病院食なるものを食べてみたが、意外と美味しい。しかし、味付けが薄いので、すぐに飽きてしまいそうである。

食器の片付けの手伝いをし、再び閑談していると、伯母の一家がやってきた。「久しぶりに会ったなぁ。大きくなって。」大きくはなってないはずだが、久しぶりに会ったのは事実だったので、「そうですねぇ。」と返答。伯母さんが通信教育を始めた話で盛り上がる。「そうそう、この間、慶応へ入学式に行ってきてん。」通信教育にも、入学式があるらしい。それにしても、いくつになっても向上心や好奇心を持ち続けている人は、輝いているし、話していても楽しい。ドイツ語で困っているそうなので、良い参考書を薦めておいた。もっとも、私がドイツ語を勉強していたのは遠い過去の話なので、その内容はほとんど忘れてしまったが。

「また来るから。元気になってな!」と言って、祖母と別れた。その足で神戸港のフィッシュダンスを見に行こうと思ったが、面倒くさくなって京都へ戻ることに。そとは暗い。道中、外の景色を眺めながら、生きることって何だろうと思った。年老いた祖母。小さくなったその姿を見て、ありきたりであるが、短くなったロウソクを思い浮かべた。祖母にも母がいて、その母にも母がいる。たゆまぬ連続性によって、今生きている私。子供が欲しいと思った。「生命」そのものに対する感謝の意から、ただ漠然と、そう思った。あまりにも突発的で、原始的な感情のあらわれに少し面食らい、苦笑いをする。電車の窓に映った自分の顔を見て、私は私だけのものである、とは思えなかった。

祖母はたぶん、そう遠くないうちに退院できるだろう。急変するような病気ではない。しかし、(年齢的な問題で)一つの生命が、終わりに近づいている。昔から、死なない人はいない。死は、ごくあたりまえの自然現象で、私もまた例外ではない。こうやって、世代が交代していく。生きることそのものに、特別な意味なんて無いと思う。だからこそ、自由に生きられるんだと思う。明日私は、どのように生きようか。