Beauty & Chestnut

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青山娼館 (小池 真理子)

現代という時代、とりわけ私(1985年生まれ)ぐらいの世代の女性は、とても自由だと思う。先月誕生日を迎えて以来、母が「私があなたの年齢の頃には母親だったわよ。」と小言を言うようになったが、さほど気にならないのは性格上の問題と、先に述べた、女性の生き方の多様性が世間で認められるようになったからに違いない。いわゆる適齢期に結婚して寿退社を強要される時代はすでに過去のものだし、一度や二度の離婚ぐらいで、(少なくとも)都会の人たちは後ろ指を指したりしない。仕事に生きることも可能だし、もちろん結婚して家事に精を尽くして生きることも可能だし、両方全力、または程々にこなして生きることも可能である。要するに、自分で「こう生きたい」と思えば、世間から反対を受けることは、そう滅多になく、後は本人に依るところが大きい。

そのせいだろうか。自由に生きられるから、どのように生きていいか分からない女性が増えてきたのも事実である。世間では婚カツなるものが話題になっている。女性の大学進学率も上がったし、キャリアを求めることもごく自然な事となった。生きる術としての「結婚」は姿を消しつつあるのに、なぜ結婚を求めるのだろうか、という問いに対する答えは、そこにあるのかも知れない。何かから解放されたとき、羽ばたいて行ける人と、また旧来の風習への回帰を求める人がいる。「自由」の是非を考える際、「女性とは」とか「人間とは」といった風に、主語を一括りにしてしまうと、たちまち真意をつかみ損ねたようになってしまう。「○○とは××である」と言い切れる事は、もしかしたら世界には存在しないのかも知れない、と思う日も時々ある。

そういえば、少し前に夏目漱石三四郎とこころを読んで、この人(夏目漱石)は、現代で言うところの”非リア”なんじゃないか、という印象を受けた。とりわけ「こころ」の「先生と遺書」なんて酷いもので、自殺したKの遺書を読んでまた人目に付くように戻したくだりで、完全に白けてしまった。その行為が、「利己」や「エゴ」などの人の「こころ」からかけ離れていて、あまりにも「機械的」だったからである。非リアが機械的、と言いたいのではなく、リアルの世界から距離感がある、もしくは日常生活から生まれた文学ではないと言いたいのだ。「人間のエゴとは」「明治の精神とは」なんて、氏の小説を読んだくらいでは、少なくとも私には語れない。なぜなら、「人間」を観察するにあたって、その視点が固定されていて、一面しか捕らえていないから。恋愛や人間関係の悩みに、体当たりでぶつかって得た哲学や経験のようなものが、あまり感じられない。良くも悪くも高踏派である。ついでに、三四郎が「矛盾だ」と言っていても、こちらからしてみれば「いやいや、別に矛盾じゃないですよ。」と言いたくなる。実践からではなく、理論による考察の上で述べられる矛盾なんて、所詮は机上の空論にすぎない。夏目漱石を読んで「人間はみな利己的だ」なんて言い切るのは、視野が狭すぎではありませんか?

前置きが長くなってしまった。やはり純文学は漱石より坂口安吾がいい。

さて、あらすじを簡単に紹介したい。主人公、奈月には不倫関係にあった男性との間に娘がいたが、母親に面倒を見てもらっている時に起きた事故でなくしてしまった。最愛の娘をなくした彼女は心の拠り所を無くしてしまう。母の不注意で、自分の娘は殺されたのだ。そして、娘を母親に預けたのは、まぎれもまく自分なのだ、という苦悩に苛まれる。ある日偶然、高校の同級生、麻木子に再会する。卒業してから疎遠になっていた彼女だが、女性の友情というのはある意味残酷なもので、お互いの「不幸指数」が一致すると不思議と無二の親友同士となれるものである。相手の不幸話と自らの不幸話が溶け合い、孤独ではないという連帯感が生まれ、そこから「友情」と呼ばれる感情が生まれる。時間の隔たりが無くなり、ついには麻木子から、自分は高級娼館で働いていることを打ち明けられる。

奈月が子供を生もうと思ったのは、「自分の子供に寄りかかりたかった」からである。子供が産まれた後は男性との連絡は自ら絶っていて、男性との関係を保つための手段としての出産ではない。そこに、彼女の依存と独立への矛盾した意思を読み取れるが、その矛盾は三四郎の「矛盾」とは明らかに別のものである。愛情を惜しみなく注いでいた娘を失った後、母に対する強い怒りと、その後に訪れる深い悲しみと、虚無感。心労により体調不良になった彼女は、マッサージを受ける。マッサージ師の手の温かみに涙した彼女は、ふいに自分も娼館で働くことを思い立つ。

そして、麻木子の紹介で面接にたどり着く。「売春という行為は、男性に肌の温もりと悦びをあたえ、男性からは温もりとそれ以上の悦びをいただく。精神に乱れが出ると苦しくなるから、どんなときも感情的にならないようにしなければならない。そうすることによって、お互いが対等であれる。」と娼館のマダムは説く。そして、「恋はご法度よ」と。男性と女性は、どんなに深い恋愛関係にあっても、対等ではない。なぜなら、愛情や情熱というのは流動的な感情であり、相手を思う気持ちには誤差が生まれる。マダムの言葉の意味を最初は理解できなかった彼女だが、働くにつれて誰よりもそれを理解し、瞬く間にトップの成績を収めるようになった。

彼女は自分の意思で、出産・育児を行い、そして、数ある職業のなかから娼婦という仕事を選んだ。「出産・育児」と「娼婦(売春)」は、永く続いた封建的な社会の元で女性が担ってきた部分である。本作は、生き方の自由が認められた現代女性が、その自由を使って回帰する様子を、深い実地的考察に基づいた恋愛観と人生観、哲学を織り交ぜて描かれた、至極の一品であるといえる。