Beauty & Chestnut

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檸檬とレモン

iPhoneに入れている青空文庫リーダーで梶井基次郎檸檬を読んだ。短い話で、構想のようなものは特に見当たらない。病に冒されている主人公が、その不安から逃れようとして京都の町を歩く、ただそれだけである。が、精緻な心理描写により、緊張感が漂う。以前興味を持っていたものは、その不安のせいであろうか、特に関心を示さなくなった。その代わり、どこか古さや寂れた感じ、ともすれば壊れそうな家屋の並ぶ町並みや、花火に心惹かれるようになる。ある日、町をあるいていると、八百屋に並ぶ檸檬が目に入った。「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」、「それからあの丈の詰まった紡錘形の格好」をした檸檬。一つだけ買って帰る。檸檬の冷たさ、爽やかな柑橘系の香り、色、質感。これらによって一時的に気分の高揚と、爽快感を覚えた。久しぶりに丸善に入ったとたん、その気分は一転して暗いものとなる。本棚から画集を取り出してページをめくるが、何も心に響いてこない。それ以上に、また書棚に戻すことさえ大変な作業で、何冊か引き出した本はそのままである。ふと、先ほど買った檸檬を思し、手当たりしだいに取り出して積み上げた本の上に置いてみた。画集のガチャガチャした色を、檸檬がひっそりと吸収して冴えた空気をかもし出していた。そしてその檸檬を爆弾に見立て、丸善が木っ端微塵になる空想を描いて、その場を立ち去った。

小説にカテゴライズされている本作品だが、読んでいるときの心持は、まるで詩を読んでいるときのそれと同じである。心情を細かく描写していることによってかもし出されている緊張感。そして、檸檬の精密な描写は、読者の想像力を掻き立てて、まるでそこに本物の檸檬があるかのような錯覚に陥る。檸檬の質感(重み)と、心に抱える「えたいの知れない不吉な塊、不吉な塊」。この二つを持ち出す詩的な技巧。文学というものは、なかなか奥深いものである。

今日、新宿に出かけた帰りに紀伊国屋(スーパーの方)に寄った。小説の檸檬を読んでいるときに思い描いた「レモン」の像がどれだけ正しかったのか、確認してみたくなった。国産のレモンの値段の高さに少し驚きながらも、高いといっても大した値段ではないので4つほど購入し、帰ってきた。パックから出し、手に取る。表面のデコボコ感、柑橘特有の爽やかな香り、手触り。どれも思っていた通りであったが、レモン自体の大きさがちょっと予想はずれで、思っていたよりも小さかった。握りこぶしの4/5ぐらいであろうか。安物の包丁の切れ味の悪さに苛立ちながら、それらを輪切りにし、アカシアの蜜に漬ける。黄金色の蜂蜜に漬けられた、黄色いレモン。最近曇りがずっと続いていたせいか、瓶の中には太陽の光が凝縮されているような気がしてきた。そのとたん、包丁のせいで厚くなってしまった不細工なレモンの輪切りが、なんだか無邪気で可愛らしい存在に思えてきた。1時間おきに攪拌し、夕方ぐらいに味見してみたら、口の中に蜂蜜とレモンの美しいハーモニーが広がった。もしかしたら私は天才なんじゃないかと思ったが、それは単に、素材が良かっただけの話である。でもやっぱり、その素材を選んだ私もなかなか良いセンスをしていると思う。レモン汁が混ざることによって、蜜がサラサラした感じに。近くで見ていた母が「(輪切りが)へったくそやな〜。」と茶化した。料理の上手下手は、決して包丁の技術だけで判断できるものではないと思う。

部屋のインテリアにもなりそうな、はちみつレモン。

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