Beauty & Chestnut

栗野美智子オフィシャルウェブサイト(笑)へようこそ。ツイッターもやってます。@Michiko_Kurino

零度のエクリチュール (ロラン・バルト)

私は家族や、大阪に住んでいた頃の友人を除いて、普段は標準語を話して生活をしている。これは別に、郷に入りては郷に従え、のような謙虚な心持からではなく、なんとなく標準語で話し始めたら、板に付いた。ここ数年は滅多に見なくなったテレビドラマやニュース、ラジオや小説。いたるところに標準語が溢れているせいで、難なく身に付けるどころか、ごく自然に、あたかも標準語の環境で育ったかのように話すことが出来る。この事を話すと、大概の関西の友人は、関西人がなんで標準語話してんの、と突っついてくるが、話し言葉というのは、一つのファッションのような存在であっても良いと思う。関西弁でも標準語でも、古語でもオネェ語でも花街言葉でも、表現のツールとして、使いたいものを使えばいい。ただ、相手の立場や年齢、出身地に関わらずにコミュニケーションを円滑に、かつ快適に行うために、やはり(敬語を含めた)標準語の存在は必須である。

日本に「標準語」という概念が登場しだしたのは、明治の近代化あたりである。義務教育で標準語を扱うことにより、日本国内なら、おおよそどの地域に行っても言葉で苦労することは無くなった。標準語の台頭以前は、地域によって話す言葉が違うため、行き来する人はさぞ苦労したに違いない。諸藩から集まる武士で構成されていた江戸の武家社会で交わされていた言語も、ある意味標準語の役割に近い機能を果たしていた。(この、武家社会で使われていた言語が標準語に変化していった、という説があるが、そこらへんはよく知らない。)そして、クレオール言語のような混合言語のようなものがあったと思う。それはそれで興味深い。

話し言葉がこのようであるのと同様に、書き言葉もまた然りである。いや、こちらはもっと、多彩かも知れない。書かれた言葉というのは、必ず何かを意味している。時代の趨勢、言語を超えた精神を表すことも可能である。書き言葉によって表現または意味されているものを、「エクリチュール」とバルトは定義している。(時代の趨勢を表しているエクリチュールの例として、エベールというジャーナリストが「ちくしょう!」「くたばれ!」といった言葉を記事に多用していたことが挙げられている。「ちくしょう」や「くたばれ」自体に意味はないが、その言葉によってフランス革命の状況が表されている。) エクリチュールは書き言葉から生まれ、書き言葉は文体によって彩られ、文体は所属している社会をも表す。

たとえば、一日の出来事を記録するとする。

A「男もすなる日記といふものを〜」
B「本日未明、○○市に住む女性が〜」
C「【非リア】つまらない一日を報告するスレ【上等】」
D「今日は、会社の同僚の○○ちゃんと銀座のカフェでスイーツとパスタを食べてきたよ☆」

Aだけ時代が違うが、文学の文体を表現したかったので引用。さて、これらはすべて同じ日本語である。同じ日本語でも、多様だ。Aは文学であり、Bはニュース、Cはネット掲示板、Dはスイーツ(笑)。エクリチュールはさまざまな文体によって表現されている。どうでもよいが、Dは実際に友人から届いたメールである。昔はいろんな本を読んでいて、勤勉な子で尊敬していたのに、今じゃただのスイーツ(笑)に・・・(涙目) このように、文体によって、書き手がどのような社会や文化に属しているかわかる。

この、文体というのは不思議なもので、私は泉鏡花を読むのに非常に苦労するが、それよりも前の時代に書かれた漢文の書き下し文のような文体はスラスラと読める。自分の時代に近い文体だから読みやすい、というわけではない。現代語で書かれていても、理解できないものも存在する。さて、タイトルの”零度”のエクリチュールとは、どのようなものを指すのだろうか。バルトはジャーナリズムの文体によって表されるものだという。事実を何の脚色も誇張も思い込みもなく、ありのままに書くことにより、「零度」が実現される。文章というのは人間によって書かれるものである以上、この「零度」が果たして実現可能なのかは私にはわからないが、少なくともマスメディアは零度を目指して欲しいと思う。(いつかGoogle社あたりが、情報を入力するだけで自動的に文章を生成するプログラムを作りそうだけど。)