Beauty & Chestnut

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建築家 安藤忠雄 (安藤 忠雄)

安藤さんを、いかに語るかが最近の私のテーマである。「好き好き大好き!!」と一言で済ませるのは簡単だし、「もうね、とにかくグレートなの!!」と手放しで絶賛するのも簡単である。今日はもう少し言葉数を多くして、安藤さん並びに安藤建築について語ってみたい。

先日のサントリーミュージアムで行われたギャラリートークとサイン会で、初めて安藤さんを直接見ることが出来た。とにかく実物を見てみたい、とかねてから思っていた私は有頂天となると同時に、あわよくば握手でもしてもらおう、という事前に立てていた計画のこともすっかり忘れてしまうほど、頭が真っ白になった。写真で見る安藤さんの眼光は、鋭い。これはもう、勝負師の目である。ご本人にもプロボクサーの経歴があるらしいので、頷ける。物事の本質を一瞬にして見抜いてしまう、写真越しでもドキっとしてしまう、あの本気の目が好きだ。そういった印象から、とっつきにくくて気難しい人かもしれない、と思っていたが、実際にお会いした安藤さんは非常に人懐っこい笑顔を見せてくれた。あの厳しい顔つきと、実際に向けられた、やさしい顔つき。どちらかが本物で、どちらかが作り物、とは私は思わない。どっちも安藤さんなのだろう。

女性が長生きする理由は、いろいろなものに興味を持って、実際にそれを求める行動に移すことができるから、つまりは人生を楽しむ能力に長けているからだ、と安藤さんはトークで仰られた。こういった考え方が出来る人は、前向きだと思う。何かについて論じるとき、それを肯定的に語れる人は、自分の人生についても肯定的に取り組んでいる。一見脈絡の無いような見解であるが、事実、何かについて否定的な意見しか言えない人は、人生に対しても否定的な考え方を持っている事が多い。予備知識なしで何か芸術作品を見たときに抱く印象も、同じことが言える。対象を見たときの純粋経験が同じであっても、その後に主観がどのように感じるか、に差が出る。つまりは何事も、自分の物差しでしか、判断できない。他人の物差しで判断する、というのも、他人の物差しに依拠するという形をとった、自分の物差しである。安藤さんが前向きである、と感じる所以はもう一つあって、「官ではなく、民の力でやろう」という、強い独立心である。不景気について、バブルの時代がどうのこうの、政策がどうのこうの、と語って終わりにするのではなく、政府がだめなら自分たちでやろう、と語り、そして実行に移すバイタリティー。素晴らしい、の一言に尽きる。

さて、独学で建築を学んできた安藤さんであるが、建築家とその他のアーティストの違いは何だろうか。「(他のアーティストとは違い)建築家には活動のための組織が必要だ」と述べておられる。すべての建築物には、依頼主が存在する。そして、その依頼主の、いわば他人のお金で創作を行う。経済的、社会的なしがらみが出てくる中で、どのように組織を運営していくかが、重要なポイントとなる。組織は放っておけば肥大化していき、自分のための組織であるはずか、その組織に自分自身が振り回されてしまう。そうなってしまえば、建築家は終わりだ。しかし、スティーブ・ジョブズのようなワンマンな組織運営を安藤さんは行わない。スタッフを、ともに戦うゲリラ集団の仲間とみなし、「失敗したら俺が責任をとる」と言って、どんどんチャンスを与える。こういった環境のなかでこそ、人は成長するのだろう。意外であるが、スタッフが描くデザイン(のセンス)が多少悪くても安藤さんは怒らないらしい。ただ、クライアントの関係や仕事に怠慢さが見えてきたら、後はもう、ご存知の通りである。

さて、安藤さんの建築物といえば、まっさきに住吉の長屋が思い浮かぶだろう。あるいは光の教会だったり、最近だと渋谷駅だろうか。フォートワース現代美術館も外せない。地中美術館も、水の教会も、外せない。共通して言えるのは、どの建築物にも無駄な装飾が無いことである。日本建築は日光東照宮のような装飾過多なものと、桂離宮のような単純・明快・優雅なものに分かれる、とブルーノタウトが「日本美の再発見」で述べている。安藤さんの建築にも、桂離宮に繋がる単純さと明快さが備わっていると思う。(優雅さについてはよくわからないが。) これ以上削れない、ミニマムさが、かえって強い存在感をかもし出している。桂離宮のような建築が持つ繊細さを、安藤建築においてはあまり見出すことは出来ないが、安定感がある。安藤さんは、京都と奈良の日本建築に触れて育ってきた。そして、彼自身、「伝統とは、目に見える形ではない。形を担う精神である。その精神を掬い取り、現代に生かすことこそが、本当の意味での伝統の継承なのだ」という考えを持っている。この一節に大変感銘を受けた。(だから京都の景観条例はいらないんだよ、と述べるつもりは”今日は”ない。) こういった考え方があるからこそ、安藤さんはあのように挑戦し続け、新しい建築を世に放つのだろう。

実際に今までに見た安藤建築の中で一番お気に入りなのが、六本木のミッドタウン傍に存在する21_21 Design sightだ。美術館(またはデザイン施設)の役割は、展示される作品をよりよく見せることであるが、21_21自体もアートといっても支障ないだろう。とりわけ、晴れた日に見る21_21は素晴らしい。緑の芝生、青く広い空、その中間に存在するコンクリート建築物。(六本木には高層ビルが立ち並ぶ印象があるが、意外と開かれた土地である。そういうわけで、六本木にいながらも、空が広いと感じることは可能である。) シャープな形をしていながらも、決して威嚇的ではなく、コンクリート建築特有のゴツゴツとして角ばった印象はなく、どちらかといえば、柔らかい。そして、壁にガラスを使用することによって、外に開かれており(空間の延長性)、「芸術」というものが持つ敷居の高さを払拭している。同時に、自然光も取り込むので、明るく、閉塞感のようなものは一切無い。作品を多くの人に見てもらいたいアーティストと、ちょっと入ってみたくなる美術館(デザイン施設)。そして、実際に入ってみると、小さいながらも、快適な空間である。リラックスした状態で作品に向かう。非常に贅沢な時間だ。使う人のための建築物、というのはきっと、こういうものを指すのだろう。

もちろん、(すべてのアーティストに言えることであるが)安藤さんの作品すべてが良いわけではない。それでも、「日本が誇る建築家」に相応しい。とにかく、私が家を拵えるまで、現役であってくれることを祈るのみである。

自慢のサイン本↓