Beauty & Chestnut

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東京−嵐山−化野−四条

法事のため、関西へ。
朝6時の新幹線に乗る予定だったが、目が覚めたら5時53分。どんなに急いでも確実に間に合わないので、もう30分ほど眠ってから起きる。どうにかして新幹線のチケットを払い戻そうと考えたが、いい方法が思いつかず、新規で一枚購入。快適な睡眠を1万2千円で購入したと思って諦める。予定より2時間ほど遅れて京都駅に到着。そのまま嵐山へ向かう。改札を出たら、豪雨に見舞われる。私の余りある徳の高さに、雨の神様が狂喜乱舞したのだろう、とポジティブに解釈。15分ほど待っていたら、急にやんだので歩き出す。メインストリートに出て、ロールケーキを購入し、頬張りながら化野の方へ。嵯峨の奥の方へ入るにつれ、人通りが少なくなってきた。住宅地を通り過ぎ、しばらくした頃、再び嵐山のメインストリートに負けず劣らずな賑やかな町並みが。竹や繭を使った民芸品を販売している。雨上がりのせいで蒸し暑く、適当にお店に入ってガーゼのハンカチと一度開いたら閉じにくい扇子を購入。これで道中随分快適に。

かねてから行ってみたいと思っていた、化野念仏寺に、ついに到着。わくわくしながら入り口までの階段を上る。当時、風葬が主流だったところを弘法大師(空海)が土葬の方法を伝えたとされている。風葬が土葬になればなぜ成仏できるのかわからないが、あたり一面にならぶ無数の石仏を見ていると、大変穏やかな気分になった。私は墓地が好きだ。長い旅から家に戻った時の、あのなんとも言えない安心感のようなものが、墓地にはある。面積が均一に分譲されている、ニュータウンのようなお行儀の良い墓地はあまり好きにはなれないが、墓石や石仏がところ狭しと並んでいて、規則性が無く、風化している墓地に心惹かれる。化野念仏寺(の賽の河原)は想像していたよりも規模が小さかったけれど、良い空間だと思った。涼しければある人と、ここでお茶とお菓子でも食べながら無常観について語りたいと思ったが、この場所が苦手らしいので、その夢は叶えられそうにはない。なので、ここは一人で訪れて思索にふける場所にしようと思った。ちなみに、似たような場所に愛宕念仏寺というところがあって、そこに並ぶ「千二百羅漢」(石仏)の写真を見たとき、こっちは駄目だと思った。本能的にそう思った。行ったら帰ってこられなくなりそうな、呪術的なものを感じた。同じ念仏寺でも、こうも違うものなのだろうか。

化野念仏寺を出て、渡月橋の方へ向かう。途中、のどが渇いたので喫茶店に入ってコーヒーを注文したら、ドリッパーが竹で出来ていた。なるほど、この付近は竹がよく取れるから、こういう使い方があるんだ、と関心。近くのみやげ物店には竹のコップが売られていた。これで飲んだら、普通のお茶でも美味しく感じるかもしれない。桂川そばのベンチに腰掛ける。この川はそんなに広くないし、向こう岸がよく見えるからそれほどでもないが、川をはさんで、こちらの世界(此岸)と向こうの世界(彼岸)を想像した古代人の感性が、なんとなくわかるような気がした。

嵐山を出て、四条の方へ。魯山人の焼き物を見に行く。手島泰六の書展が開催されていたので、鑑賞。「会」の旧字が美しいと思った。漢字の書体にはいろいろあるけれど、正直、草書体の良さがまだ理解できない。なので、関心は楷書体や行書体の方に向いてしまう。この「会(の旧字)」という字は大変力強く、そしてしっかりとした字だった。なんていう技法なのか知らないが、線が滑らかな一直線ではなく、滲み出しているような、がたがたとした感じであるが、それが逆に炎のようで、訴えてくるものがあった。肝心の魯山人の焼き物も、期待以上だった。事前に写真で見ていいなぁと思っていた物はそれほどでもなかったが、逆にあまり好みでなかった物を見たとき、これは良いと思った。写真の視点は常に一箇所に留められているせいか、やはり実物を見るに限る。魯山人の焼き物は使うことに価値があるらしく、それを確かめるために吉兆へ行きたかったが、あまりにも値段が高かったので諦める。(十分に払える額であるが、今は分不相応だと思ったので、いつか行きたい。)その後、鴨川沿いに歩いて五条へ。なぜ駅前から一条、二条ではなく、七条、五条、四条〜なのだろうか。六条は?いまいち京都の地理(地名のシステム)が分からない。