Beauty & Chestnut

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神保町で古書収集

最近、古本を手にする機会が増えた。別に、新刊で買うと高いから古本を選択してお金を節約している、というわけではない。欲しいと思った本が絶版になっていて買えないから、というだけである。最近はネットで古本を販売するところも出てきたので、買うものが決まっている場合は、そちらを通して購入する。どこの古本屋だったか覚えていないが、納品書の片隅に「この本があなたの糧になることを願っています」といったメッセージが添えられてあった。そうそう、糧にしてやろうという気持ちで本に向かわなければいけないんだよなぁ、と思った。この文面を考えた人は、なかなか読書が何たるかを心得ている。

とはいえ、読みたい本は迷わず購入するため、購買意欲が高まってくると同時に本も溜まってくる。机に積み上げられた本を見て、「早く読みたい!!」と飢えてくるので、片っ端から読んでいく。だいたいを消化し終わった頃に、そういえばあの本って一体何を書いてあったのだろうか、と思うことも少なくない。つまらなかったから覚えていない、というわけではなく、単純に忘れてしまうのである。しかし、読後には気持ちがみたされているので、そういう読書も悪くないと思う。(それを読書とよべるかどうか、は意見の分かれるところだけれども。)

しばらくすると、もう一度あの本を読んでみよう、という気持ちが湧き上がってくる。その感覚は直感に近い。本のタイトルだけが頭に思い浮かんだり、背表紙をみて適当に選ぶにすぎないが、言うなれば、本との再会である。今度は付箋を貼ったり、マーキングをしながら、時には自分の考えを書き込んだりして、読んでいく。速度はきわめて遅いが、この過程を経なければ、本に書かれてある知識が吸収されない。いわゆる「論語読みの論語知らず」状態から抜けるのである。ある程度、その過程を経た本が溜まってくると、これは早朝に読む本、お酒を飲みながら深夜に読む本、休日にカフェで読む本、と自分の中で勝手に分類をし始める。ちなみに、早朝に読む本を実際に早朝に読むことはあまり無い。早起きというのは、難しいものである。

ネットで本を探して、それが届くまでの過程もなかなか楽しいものであるが、わざわざ古本屋に足を運ぶ楽しみは、予想外の出会いにあると思う。某K書店の店員のお兄さんが海老蔵にそっくりで、ちょっとドキドキした、といった意味での出会いではない。(しかし、良い接客だった。) 自発的に探して購入するのではなく、なんとなく気になって手にとってみる、という思いがけない出会いである。本にほどこされた装飾(素材や形、色など)が美しい場合もあれば、目的の本の近くに置かれていた場合、通り過ぎようとしたときに目に留まった場合など、その出会い方は多様である。そういった出会いを求め、そして、カレーが食べたかったので、神保町に出かけてきた。(神保町はカレーの名店が多い。)

1件目に入った古本屋で、日本の名著シリーズの中江兆民の巻を発見した。目次を見ると、「一年有半・続一年有半」が収録されている。これは以前、読もうとしたら絶版になっていて、思いのほか値段がついていた(岩波文庫で、数百円のものが4千円近くなっていた)ので諦めたものである。即購入。次に入った店で、「茶と禅」の旧装版を購入。茶と禅は中国から来たものであるが、なぜ日本でここまで盛んになったのだろうか。そしてなぜ、一緒に語られることが多いのだろうか。(漢字も中国から来たものであるが、「漢字と茶」や「漢字と禅」は一緒に語られることがあまりない。ついでに、なぜ「仏教と茶」ではないのだろうか。) そういうことを調べたい。そうこうしているうちに、両手で抱えるほど大量に本を買い込み、カレー店に入る。日本のカレーよりインドやスリランカのスパイシーなカレーの方が好きだ。最初は苦手だった何かの香草も、なれたせいか、それがないと駄目だと思うようになってきた。食の好みは結構、幼少期に限らず、大人になってからでも形成されるものだと思う。ビールは未だに苦手だけれども。

帰宅後、本の置き場所に頭を抱える。地べたに置くのが嫌なので、とりあえず暫定的にベッドの上に置いているが、近々本棚の買い足しをしたい。