Beauty & Chestnut

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秋宵

前日の夕飯はカレーライスだった。そういえば先週もカレーライスが食卓にならんでいたので、2週連続は珍しいな、と思って母に尋ねた。

「お母さんがな、高熱だしてちょっと危ない状態やってん。このあいだお見舞いに行ったとき、カレーライスが食べたい、って言ってたから・・・。」その日私は残業で、一人で遅い夕飯を取ったのだけど、父と母はお皿をひとつ多めに用意して、祖母の写真の前に置いて食べたらしい。まだ祖母は生きているのに、何を言っているのだろうか、と思った。今思えば、虫の知らせのようなものを、母は感じていたのかも知れない。

翌日、夕飯を食べてお風呂の時間まで少し眠っていたら、母が起こしに来た。そうか、お風呂の時間か、と思ったら、どうも様子がおかしい。何か察するものがあったので、「どうしたん?」と尋ねてみた。祖母が亡くなった知らせを聞いた。

私は、あらゆる宗教的な儀式や、霊の存在論のようなものを馬鹿にしている。何かを信じて生きるのは性に合わないし、教義に人生を左右されるのなんて真っ平だ。手を合わせて神に祈りを捧げようなんて気にはならないし、自分の事は自分でやらなければいけない。心の拠り所をいかにして自分自身に据えるか、の答えを見つけ出せたとき、個人主義思想への大きな一歩となるだろう。人は神の前に平等なのではなく、自らの意思で平等たるべきである。どうにも気分のむらが激しくて、時折、生きていても仕方ないんじゃないか、と思うこともあるけれど、死んだら全て終わりなのだと思う。霊魂の存在は、残された者の仮初の希望に過ぎず、どうあがいても、二度と祖母と対話をすることはない。年をとったり、病気になったり、または自ら命を絶つこともあるかもしれないけれど、生きている以上、必ずいつかは死ぬ。自然現象である。

そういった価値観を持っているけれど、頭ごなしに母のカレーの話を馬鹿にすることは出来なかった。母の、自然の無常さに対する、ささやかな抵抗なのだろう。何もすることが出来ないけれど、何かをしたい、という必死の思いからの行動だったのかもしれない。この献身的な振る舞いを、安くんぞ嘲笑わんや。

晩年の祖母は、生きる気力を失っていた。活力にあふれた祖母なんて、幼稚園ぐらいの頃までしか記憶にない。お見舞いに行ったとき、「生きているのに疲れたわ」と言われ、そのことを一層強く感じた。楽になれてよかったね、とは思わないけれど、無事に退院して、またいつもの生活にもどれたらよかったのに、とも思わない。祖母のことは、祖母にしかわからないので、私があれこれ言うのは止そう。

その知らせを聞いた夜、さすがに眠れなかった。仕方ないので、本でも読んで過ごすことにした。

開け放した窓からは、涼しい秋風が。遠くからは、鈴虫の鳴き声が。秋の宵。しばらくは生きようと思った。