Beauty & Chestnut

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ピアニストになると思わなかった (天平)

タワーレコード渋谷店の6階が会場だった。エスカレーターで5階に着くと、既にピアノの音が聞こえてきて、私は時間を間違えたのかと思った。急ぎ足で6階へ向かう。音の発信源の方へ、半ば直感的に進むと、既に少し人だかりができていた。しかし、まだ人の数が少ない。その瞬間、彼が練習中であることを悟った。パイプ椅子が4,5列並べられていて、ほとんどの人が座らずに立っていた。数名が既に着席していたので、私も空いている席の中で一番良さそうな席、前から2列目の端に座った。ここからなら、天平さんがピアノを弾いている顔をよく見ることが出来る。芸術家が芸術に打ち込む姿、とりわけ顔を見てみたかった。どのような表情で取り組むのか。ピアノを辞めてかなりの年数が経っている私にとって、指の速度やペダルをどのように踏んでいるか、などの技術的な事はあまり興味が無い。

中村天平。まだ彼の名を知る人は少ないだろう。私も偶然レコード店で彼のCDを試聴して、あの美しい音色の存在を知った。これを弾いている人はどんな人なのだろう。どのような人生を歩んできたのだろう。どんな世界観を持っているのだろう。彼の音楽を聴いて、アウトサイダー的な印象を受けたが、それは何故だろう。強い引力のようなものに惹き付けられるように、私は彼に興味を持った。まだCDのリリース数が少ないので、自伝を出版するには早いかもしれない。だけど、情報があまり無い中で、このように本人が本人を語る媒体があるのは助かった。

■美しい矛盾
彼のピアノは力強いけれど静かで優しく、情熱的であるけど繊細な響きがする。武骨でありながら洗練されていて、荒削りだけどふとした拍子に高度な完成性を感じる。私はこれを、「美しい矛盾」と呼びたい。ひとたび彼がピアノを弾けば、ピアノは単なる鍵盤楽器ではなく打楽器にも弦楽器にも金管楽器にもなる。ソロだけどオーケストラに匹敵する迫力がある。「ピアノ」という枠を越えて、聴くものを魅了し、絶頂へ導く。彼はコンポーザー・ピアニストという肩書きを名乗っていて、本人曰く「すぐれたピアニストだからこそ作れるピアノ曲を作る作曲家(P.65)」という意味を込めている。決して傲慢なのではなく、むしろ謙虚に直向にピアノへの情熱を込めて言っているのだろう。

ガテン系ピアニスト
HMV新宿店で、彼をそう紹介しているPOPがあった。ガテン系ピアニストって何だろう、と思って聞いてみたのがキッカケである。彼は5歳からピアノを始め、中学生ぐらいの頃には完全にピアノから離れていた。高校を半年で中退し、肉体労働の職に就く。遊んで飲んで働いて、の毎日は楽しかったけれど、だんだんと疑問を持つようになった。「何かが違うような気がする。毎日楽しかったが、どこか満たされていない自分がいた。今の生活を変えたい。(P.54-55)」改めて自分について考えたとき、彼にはピアノがあることを悟った。「天平」誕生の瞬間だった。

■タフでポジティブ
本書を読んでいて、文章はあまり上手ではないけれど、強い感受性とポジティブマインドの持ち主であることがよくわかった。そう、彼はとにかく前向きなのである。幼少期から大自然の中で生活することに憧れ、動物が大好きで、素直で純粋な人である。一方で「死ぬのが死ぬほどこわい(P.96)」と思うことがあり、彼独自の死生観も持っている。苦悩や苦難を乗り越えた人間は強い。彼なら、心が折れるようなことがあっても、立ち直って糧にできると思う。そういう強さを、私も見習いたい。

「ピアニストになると思わなかった」彼が彼の言葉で、自分を語っている。読者は彼の人生を擬似的に体験することによって、彼をより一層深く知ることができる。そして、言葉を通して彼の思想の一部を共有する。今後、彼がどのように成長し、新しい曲を作り、活躍していくのか、見守りたい。私は中村天平を応援します。