Beauty & Chestnut

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百代の過客 (ドナルド・キーン)

今ではとても考えられないが、中学生ぐらいの頃、日記を書いていた。どこかの出版社が出している日付と曜日だけ印刷された空白の文庫本に、その日の出来事や思ったことなどを書き綴った。1ヶ月ぐらい書かなかった事もあり、後で必死に思い出してそれなりに書いていたような記憶がある。もはや日記とは言えない日記だが、なんだかんだで半年ほど続いた。以降、数年に1度ぐらいのサイクルで日記を書きたくなり、東急ハンズや文具店に駆け込んで鍵付きの日記帳を買う。文庫本の日記は中学生の時以来買っていない。2週間ほどで飽きてしまい、ブランクが長くなれば長くなるほど、続きが書きにくくなる。そういうわけで、次に書きたくなった時は新しい日記帳を買う。それの繰り返しである。「最長記録:半年」は、未だに越えられていない。

本書、百代の過客は、朝日新聞で連載されていた記事で、著者ドナルド・キーン氏による日本人の日記研究である。元々彼は大戦時に日本兵の残した日記(手記)から何か情報を読み取る、という仕事をしていたが、その際に日本兵の日記の特異性のようなものに気付いた。そう、彼らはなぜ、心情を綴るのか。その疑問が彼を日本文学の域にまで連れてきた、と言っても過言ではないと思う。彼がよく知っているアメリカ兵の日記(手記)は、戦況や誰かが読むことを意識したメッセージが多く、そこには心情は綴られていない。内面が吐露された日記は、きっと彼にとって衝撃だったと思う。日本人の日記に興味を持った彼はその後、「奥の細道」に出会い、「紫式部日記」「蜻蛉日記」「土佐日記」「更級日記」など、古典文学と呼ばれるものを次々に読破していき、独自の研究を続けていく。「百代の過客」は上下巻構成になっていて、この本で紹介されていない日記は無いんじゃないか、というほど多数の日記を扱っている。まことに恐れ入った。

少し話がそれてしまうが、私は建築に興味があるので建築史や意匠論、空間・風土論などをよく読む。ブルーノ・タウトオギュスタン・ベルクらの日本(建築/風土)考察は見事だ。建築関係から離れてしまうが、同じ「日本」という国を研究したベネディクトは名著「菊と刀」を、なんと日本を訪れずして書いたという。もちろん、ドナルド・キーン氏を含め、彼ら彼女らの考察にはオリエンタリズムならぬ何らかの幻想ジャパニズム(と呼んで良いのかわからないが、そういった「確証バイアス」)があるだろう。しかし、ともすれば日本に生まれて日本で育った日本人よりも、日本に対する鋭い観察眼と考察を持っていたりする。そして、日本人より日本人的(と呼ばれている)情緒に通じている。日本人が書いた日本論で彼らに匹敵するものは、思っているほど多くは無い。日本に限らず文化や風土を語る場合、国籍や生まれ育った国はそれほど重要なのではないかもしれない。インターネットの台頭により「物理的距離」が払拭され、遠くに住む人とコミュニケーションを取ることが容易になった。また、海外から日本にやってくるひとも増え、その逆もまた然りである。文化交流が活発になった現代、もはやこのような「日本/日本人論」は意味を成さないかもしれない。そういう意味で、日本論そのものが(過去の日本を記録した)「日記」として存在するようになった、とも言えるだろう。

先ほども述べたが、この本で紹介されている日本人の日記は、「どこそこに行って、何をした」のような、純粋な意味での「出来事の記録」ではない。松尾芭蕉の「奥の細道」に関して言えば、かなりの作り話が含まれている。その事は、芭蕉の旅に同行した河合曾良の日記と対比することで明らかになった。やはり、俳人の日記は俳人の日記なのである。これは芭蕉流の日記作法であり、日記言語なのである。私のお気に入りの「更級日記」に
ついての考察も収録されていて、書物にあこがれた少女がその後どのように成長したのかが記載されていた。(ネタバレが嫌いなので、気になった方はご自分でお調べになってください。) もちろん、日記に綴られていることを基にした考察なので、実際はどのように暮らしたのかは知らないが、書物への憧れは並大抵のものではなく、少なくとも(日本人の)日記はこの時代から「文学的な要素」と親和性が高かったことが伺える。そして、それらの日記の作者は心の中に秘めておくだけでなく、紙に書いて残すぐらいだから、読む人の存在を心のどこかで少なからず意識している。

その心情は現代人にも見事に継承されている。そう「日記」は、mixiやブログの登場により、「だれかに見られる可能性のある媒体」から「表現としての媒体」に拡張した。もちろん、今でも鍵付きの紙媒体の日記を愛用している人がいるだろう。しかし、読み手が「自分自身のみ(の可能性が高い場合)」か「自分と他人」の違いだけで、本質的な事は変わらない。では、本質とは何か。私は「生きている実感」なのではないか、と推測する。「和泉式部日記」も「多武峰少将物語」も「成尋阿闍梨母集」も、その他たくさんの日記にも、実は大したことは書かれていない。(もちろん、歴史学的には意味のあるものだけど。) そこにあるのは、ただの一個人の生活に基づいた文学的な記録で、人生に憂いもすれば、他人に嫉妬もするし、仏門に入って家族を省みなくなった話もあれば、遠い国へ修行に行った息子を案ずる母親の話もある。ごく普通の人が、ごく普通の生を全うし、日々を書き連ねる。これらの日記は、あまりにも人間的なものである。

昨日何をしたのかさえ思い出すのに時間がかかることがある。記憶力に障害があるのではなく、単純に惰性だけでその日を過ごした場合、このようなことが起こりうる。そういう日々が1週間でも続けば結構憂鬱なもので、ひどい場合、それすら気付かずに1ヶ月、2ヶ月経っている事も多々ある。「今日は素敵なことがあったから日記を付けよう」というのもありだけど、「何もなかったからこそ、逆に日記を付けてみよう」というのも大いにありなのである。そして、それこそ「百代の過客」なのである。