Beauty & Chestnut

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ポニョ考察

夏目漱石の短編小説「夢十夜」をご存知だろうか。「こんな夢を見た」という書き出しから始まる、漱石夢日記のような小品である。その作品では、これでもか、というほど不思議で不可解で不条理な世界が展開されているが、書き出しの「こんな夢を見た」という一文の効果により、「それはおかしい」という指摘が禁じられている。私のお気に入りは第三夜の、子供を背負う父親が登場し、最後に背負われている子供が「100年前にあなたに殺されました」と言って石地蔵のように重くなって終わる話である。この余韻をひく終わり方こそ、現代日本のホラー映画の原点ではないだろうか、と個人的に思っているのだが、それについては、別の機会に・・・。


金曜ロードショーから1日遅れで、ポニョを見た。単なる幼児向け映画だと思っていたので特に興味はなかったのだが、「ハムが乗っているチキンラーメン」という不思議な料理が登場する事を耳に挟み、「いや、チキンラーメンには卵でしょ。」と思いつつ、借りてみた。出だしから、ファンタジーである。ポニョの父、フジモトが海中で何か魔法のような事(結局、何をやっているのか分からなかった。)をやっているのだが、それだけで「これは現実世界ではありません」と見る者に訴えるには十分である。そう、これこそ、ジブリ夢十夜的イントロなのである。初っ端から魔術的世界観を見せ付けられた上で、この映画を現実世界とリンクさせて鑑賞するのは極めてナンセンスだ。ストーリー自体はとてもシンプルで、「主人公とヒロインが出会う→外部の圧力によって引き離される→困難を乗り越えて再会し、結ばれる」といったものである。だが、見終わった時には、何ともいえない、消化不全のようなものが心の中に残った。極めて印象的だったのが、保育園の隣に老人ホームがある、という設定である。「子供」と「老人」の対比を通じて「生と死」を描きたかったのだろうか。そして、なぜ街を水没させる必要があったのだろうか。数々の疑問が残った。


とはいえ、作曲を担当した久石氏の「死後の世界、輪廻(りんね)、魂の不滅など哲学的なテーマを投げかけている。でも、子供の目からは、冒険物語の一部として、自然に受け入れられる。この二重構造をどう音楽で表現するか。そこからが大変でした」というインタビューから、もしかしたらこの映画は想像以上に奥が深いものなのかもしれない、と思った。少し調べてみたら、ジブリファンによる解説のようなものがいくつか見つかった。本当の事を言えば、この映画には「隠された真実!!」のようなものは無いかもしれない、と思っている。解説も「深読みしすぎでは?」というほど過剰でオカルティックな関連付けが行われているものも若干あった。だが、この「知的関連付けゲーム」は、実際にやってみれば面白いものである。2回目に鑑賞した時は、メモを取りながら自分なりにいろいろと考えてみた。あえてユング心理学は引用しない。オカルティックな解説もしない。(両者とも、ウェブ上では飽和状態なので。)


■崖の上の核家族

最初に気になったのが、なぜ崖の上に家があるのか、ということである。もちろん、後で町が水没してしまうので、崖の上に家が建っているのは必須条件といえるが、「町」という共同体から一家が隔離されているように見えなくも無い。そして、父親は船乗りで、家を留守にしていることが多い。これは現代社会における「核家族化」や「家族の分離」つまり「家族とは共同体のなかで一緒に暮らしているという時代は終わった」という事を暗喩しているのではないだろうか。そして、母と子、父親を繋ぐのは電話とモールス信号。家族間のコミュニケーションが従来の対面式の対話から、顔の見えない通信機器によって代替された。いまや同じ家の中で家族とメールするのは珍しいことではない。時代と共にコミュニケーションの「方法」は大きく変化したが、家族の絆は変わらない、というポジティブなメッセージではないだろうか。


■「人間」の描かれ方

さて、フジモトは人間を「(自然)環境破壊するおろかな生き物」として認識している。これは、割と多くのジブリ作品に見られる思想のモチーフである。主に「ナウシカ」「平成たぬき合戦ぽんぽこ」や「もののけ姫」など、「人間」対「人間以外のもの」の構図が成り立っているときに多く出現する。これ以外だと「耳をすませば」や「猫の恩返し」など、人と人とのふれあいを描いたヒューマンドラマが大半を占める。人間の悪性を描いたり、時には人間の善性を描いたり。ジブリ作品は作品全体を通じて「人間とは何か」という問いを立てているのかもしれない。


■ポニョを通じて描く「生死の哲学」

もっとも気になるのは、この部分である。私は、保育園の隣になぜ老人ホームがあるのかが気になった。保育園に通うのは、これから生きていく子供達。老人ホームに通うのは、人生の終盤、いわば余生を送る人たち。このコントラストが凄まじい。嵐のシーンでは、保育園では電気がついていたのに、老人ホームでは停電になっていた。「電気」=「生命」を表現しているのだろうか。こういう細かいところに、何らかの思想が隠されているような気がしてならない。(もしかしたら、何も無いのかも知れないけど。) 嵐の翌朝、ポニョとソウスケはリサを迎えに行くために家を出るが、道中に若い夫婦と赤ちゃんを遭遇する。大正時代を彷彿させる容貌である。とある解説によれば、この時点で時空のねじれが生じているらしいが、まぁ、大いにありえるだろう。なんせ、不条理な映画だから。その後に、町の人たちが大漁旗を付けた船に乗って、岡の上のホテルに向かうところに遭遇する。前日の嵐によって町は水没しているので、彼らが本当に「生きている」のかは不明であるが、真偽判定のしようがないので、そこらは巷の解説に譲る。海中に沈んだ「ひまわりの園」では、車椅子に乗っていた老人達が、自分の足で走り回っている。そのシーンで「あの世もいいわねぇ。」「(ここは)あの世なの?」「竜宮城だと思ってたの?」という会話が展開されるが、こちらも真偽判定が不能である。ただ、もしかしたら、あの世なのかも知れない。しかし、魔術的世界でのストーリーなので、深く追求しすぎてもいけない。視聴者は1時間40分44秒目以降の夢オチも覚悟しておかなければいけないのである。(この映画は1時間40分43秒で完結している。)


■徹底的に不条理

話を戻せば、この映画は後味が悪い。それも、極めて悪い。「町が水没しちゃったから、ゼネコンが海上都市を作れば景気が良くなるね!」って話ではない。正直、海の生き物達は美味しそうではないし、真面目に考えて、その後の食糧難が目に見えている。また、海水を精製する手段が岡の上のホテルにあるとは思えない。いわばゾンビ映画で、少数の人間が生き残って、後は全部ゾンビになっちゃった、と同じレベルである。もちろん、小さい子も見るので丁寧にオブラートに包装されているが、意味するところは同じだ。この映画を見た小さい子供達はどういう感想を抱いたのだろう。それが気になる。まぁ、全ては不条理世界のストーリー。こういう考察もまた、ナンセンスなのである。

※で、実際にチキンラーメンの上にハムとゆで卵をのせて食べてみた。あまり美味しくなかった。ゆで卵が『偶然』上手に切れなかったので、画像は割愛。