Beauty & Chestnut

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なぜ日本の政治経済は混迷するのか (小島 祥一)

失われた10年が失われた20年になろうとしている。硬直した労働市場。浮き彫りになる年金問題。迷走が続く新政権。解体寸前の旧与党。隣国のGDPの伸び率に脅威を感じる一方で、本年度も横ばいの日本。この国はもう成長しないのか?総論と各論は蜜月関係になることは出来ないのか?赤字国債は増え続けるのか?なぜ日本の政治経済は混迷するのか。

■政治経済ゲームの四幕劇
著者は大学で数学を学び、官僚になった。数学とかけて、政治と解く。その心は問題を見つけて解くことである。問題だらけの日本の政治経済を解決しようと政治の世界に飛び込み、あるパターンを発見した。そのパターンを「政治経済ゲームの四幕劇」と名づけ、政府、日銀、自民党、財界がプレイヤーとなる。何か問題が起きたとき、そう、不況とかデフレとか小沢さんとかなんでもいい、とにかくそういう問題が起きたとき、政治経済のゲームは「なんの問題も無い」と言い張る。これまでの状況を維持したい、既得権益も保ち続けたい、そういった思惑から、問題は無いこととする。これが四幕劇の第一幕である。しばらくして、問題が明るみになる。しぶしぶデフレを認めたり、地検が某社に乗り込んだりして、やっと問題を認めるのであるが、今度はお茶を濁して「大した問題じゃないよ。」と言い張る。これが第二幕。見所はどこにツケがまわされるのか、という押し付け合いの様子である。問題を過小評価して対策を練るわけだから、根本的な部分は解決しない。不況やデフレなどの問題は金融政策をとることに依存し、第三幕「知らぬは日本人ばかりなり」が始まる。日本の経済問題は日本だけの問題ではない。日本経済は諸外国への波及効果もあり、いまや世界が注目している。もっと本格的な政策をとれ、と外国から言われるのである。日本国民からではなく。そして第四幕。問題が深刻化し、やっと国内でも問題意識が高まる。否応なしに転換を迫られる。財界は自民党や政府に圧力をかけ、自民党と、すでに金融政策をとっている日銀は、財政政策をとるように政府を促す。政府は問題の深刻さを全面的に認め、やっと重い腰をあげる。白旗掲げて降参、である。だが、四幕劇はこれで終わらない。第四幕でとられた「本格的な政策」に対する反対勢力が「あれはやりすぎだったのでは?」と叫び始める。そして、今度は逆方向の「元に戻す」というコースを歩み始め、ドラマは再び振り出しに戻る。あたかも、終わりのない無限ループのように。(おそらく、本書の表紙のクローバー結び目のイラストはこの現象に掛けているのだろう。非常にウィットに富んだ洒落た作りである。)

政権交代がなかなか実現しなかったわけ
日本は長い間自民党政権が続いてきた。なぜ民主主義国家であるのに、一党独裁体制のような現象が起きるのだろうか。著者は、「自民党の争点ずらし」で説明する。私が敬愛する竹中先生が尊敬する小泉純一郎さんは「自民党をぶっ壊す」と叫んで、反自民勢力をも味方とし、長期政権を実現した。これ以外にも自民党は政策をくるくると、いや、柔軟に変えて擬似政権交代を繰り返しながら居座ってきた。自民党は人材が豊富だから、どのような政策をとったとしても支持者は確保できるのである。
(補足しておけば、別に私はアンチ自民ではないし、かといって自民崇拝者でもない。その時局にふさわしい政策の提言をする政党を支持するだけで、今は「みんなの党」に期待している。この政党は今後、自民・民主を超える一大政党になるかもしれない。)


さて、日本の政治には解決しなければいけない問題が山積みになっている。しかし、それぞれの問題に均等に対応することができないので、優先順位をつけなければいけない。本書に倣い、モデル化して説明してみよう。政策の選択肢は「デフレ対策」「雇用問題」「格差縮小」の3つ。政党はA党、B党の二大政党とする。A党は「デフレ対策」を掲げ、B党は「格差縮小」を掲げて選挙に臨む。「デフレ対策か格差縮小か」の選択を迫られ、世の中はA党を支持し、デフレ対策の着手が始まる。しかし、デフレ対策があまり効かないことが判明するが、世の中が「デフレ対策>格差縮小」を求めているので、この順位は変えられない。そこで、「雇用問題」を持ち出す。「雇用問題>デフレ対策>格差縮小」とすれば、「デフレ>格差」を維持するので世の中から反発する声はでない。これが争点ずらしの「上をずらす」の例である。しばらくして「デフレ対策しても世の中が良くなるわけではない。貨幣供給量を増やしたところで、一時的にインフレが起こるが長期的には失業率が増加する!」と気付き、「雇用問題>格差縮小>デフレ対策」の順になる。これが「下をずらす」である。世の中はすでに「雇用問題」に関心が向いているので、「デフレ>格差」であった事は気にしない。これはあくまで本書を元にして私が作成した例にすぎないが、自民党はこのように争点をずらす作戦をとっていた。四幕劇同様、こちらも円環なのだ。

クレタ人は時々正直
「総論賛成・各論反対」という摩訶不思議な現象が起こるのも日本の政治経済の特徴だ。「官から民へ」というスローガンには誰も反対しないが、「郵政を民営化しよう」と具体的な話になると反対がでる。一箇所だけ本書にクレームを付けるとしたら、著者がこの問題を論理で解こうとしたところだ。「総論賛成・各論反対」を一つの矛盾と定義し、「クレタ人はうそつきだと、クレタ人は言った」というパラドクスを引用して説明を試みる。クレタ人がうそつきであれば、うそつきが本当の事を言った、という矛盾が発生し、クレタ人が正直であれば、うそつきと言うのは矛盾である、というやつだ。これはもう、典型的な「論理の罠」だと私は言いたい。クレタ人は時々正直、という解がなぜ出てこないのだろうか。このような発想を続けている限り、解決策が見えてこない。各論に反対なのは自分が損するから、という著者の見解は正しい。「総論は賛成なのに各論は反対だ、というのは矛盾である」と嘆くのがいただけない。そこからもう一歩踏み込んで、「こういう損があるけど、こういうメリットもありますよ」といかにWin-Winの関係を作り出すかに時間を割けばよい。論理よりも工学的発想を!総論ありきの各論に拘る限り、この矛盾が付きまとうことになる。各論から生み出される総論、への転換を! 総論は抽象的すぎる、という認識を!

■強い個人へ
かつてマッカーサートルーマン大統領に罷免されて帰国した際に「日本はまだ十二歳の少年だ」と言って問題になったらしい。あれから60年近くになるが、私はまだ日本は十四、五歳になったにすぎないと思う。自由、平等、民主主義が保障されるようになったが、それらは国民が自らの力で得たものではなく、与えられたものにすぎない。(もっとも、私は戦後生まれなので、戦前の日本が不自由で、身分社会で、全く民主的でなかったか、なんて検証しようがないのも事実であるが。ナントカ史観の類の論争って典型的な「過去はあるけど未来は無い」だと思う。) そして、それらを守ろうとする意志があまり感じられない。会社に隷属する人、自分の選択を他人に決めてもらう人、ただ嘆くだけで何もしない人、全てを社会や他人のせいにして自分で解決しようとしない人。探せばごまんといる。良い政治というのは良い国民によって成り立つものである。日本は衆愚政治だ、と嘆くのであれば、自分がお手本とされる人物になればいいではないか、と思う。最後に、私が最も強く感銘を受けた一文を引用して終わりたい。

日本では「公」というと、「国を守るための戦争に命を投げ出す」ことだとか、「公は官の役割だ」とか、極端な議論になる。「公」を考えるには「個」の自立が大前提であることを忘れてはならない。
日本が政治経済の混迷から抜け出し、危機を繰り返さないためには、もっと総論を鍛え、「公益」を鍛えるほかはない。そのような努力をする日本人が増え、異質な要素を認める社会になれば、あるとき停滞から飛躍するときがくる。
日本の政治経済の混迷から脱出するためには、マインドを変えることが必要なのである。(P.199)

※本書を勧めてくださったある方に感謝します。このようなかくれた良書を発見するのは、私1人では難しかったと思います。ありがとうございました。