Beauty & Chestnut

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Studies in Organic (隈 研吾)

隈さんの本を取り上げるのは2度目である。1度目が「建築入門」。以降、このブログでも何度か隈さんの話題に触れてきたような気がする。私のお気に入りの建築家の一人だ。(もちろん、一番好きなのは安藤忠雄さん!) 隈さんはどこか浮世離れした仙人のようなイメージがある。どうも最前線で戦っている建築家、という印象はない。本書はそんな隈さんの履歴書のような一冊である。彼が何を思い、挫折し、乗り越えてきたか。その過程でどのような建築哲学を構築したか、が端麗な文章で綴られている。私が隈さんを好きな理由は、彼は「哲学者」めいた側面を持っているからである。十宅論のようなライトな本も、彼が手がければ立派な論文に仕上がってしまう。私は建築についてはほぼ素人のようなもので、建築史と意匠論と構造力学をちょっと齧った程度だが、建築家には様々なタイプの人がいることを知った。安藤忠雄さんは「戦う建築家」。内藤廣さんは「構築する建築家」。伊東豊雄さんは「指揮する建築家」といったところだろうか。最近は構造力学からちょっと離れてロシア建築と宗教建築、日本建築を軸に考察を深めているが、勉強すればするほど、分からないことが増えていく分野である。もっとも、分からないことが増えていく分野は「建築」に限った話ではないが。

モダニズムからポストモダニズム
さて、20世紀前半、世の中は単一の技術と単一の美学で覆いつくそうという動きがあった。ヨーロッパのアヴァンギャルド建築家達が生み出した「モダニズム」である。彼らを礼賛するような形で、この様式はアメリカに広がり、ついには一種のグローバリズムとなって世界中に広まった。そして20世紀後半、グローバルなムーブメントに反する形で「ポストモダニズム」がアメリカで誕生する。ローカルな文化の復活を目論むこの様式は、結局のところ「新しい形のグローバリズム」にすぎなかった。隈さんはこの現実にガッカリし、「グッバイポストモダン」を執筆する。モダニズムポストモダニズムも、結局はインターナショナルであり、強者の押し売り以外の何者でもなかったのだ。

■「東京的なるもの」を求めて
ヨーロッパ人でもアメリカ人でもない隈さんは、モダニズムでもポストモダニズムでもない「東京的なもの」を作ろうとし、「伊豆の風呂小屋」や「M2」を設計する。しかし、それに対する反応は好ましいものではなかった。隈さんのイメージする「東京」は、軽くて、ザラザラとしていて、猥雑な肌触りのする場所だった。80年代の日本のポストモダニズムをリードしていたのは磯崎新で、彼はカット、ペースト、リミックスという手法に目を付けていた。とはいえ、彼が作るものにはどこか「アメリカ的」なものが付きまとい、隈さんが求めるものとは一味違った。そこで彼は独自の試みを始める。そう、彼流の「東京的なる形態、東京的なる物質」のコピー&ペーストだ。しかし、人々はあまり「形態」というものに関心が無く、唯一の「東京的反応」は「反発・批判」だったのである。彼が「物質にこめた思い」は理解されず、物質的アプローチの困難を痛感した。

■建築の消去
90年代の彼は、「建築を消す」「物質と向かい合う」ことに集中した。その過程で「亀老山展望台」や「水/ガラス」が生まれ、この頃に作られたものが徐々に世界で認められるようになった。そして、物質(素材)と人間の身体の関連性に興味を抱くようになる。「見えない建築」の概念が誕生した。海外からのコンペの誘いが増えたが、建築を消すというアプローチは思いのほか苦戦した。コンペに負け続けることで時代を批判することも出来た。しかし、優れた建築家というのは時代が建築に何を求めているのか耳を傾けなければならない。公共事業というのは税金によって行われる。税金が使われる以上、世間の目は厳しい。そんな折、ユダヤ美術館のコンペがキッカケで新たな一歩を踏み出すことになる。建設予定地の広場を訪れ、その地面の下にはナチスによって徹底的に破壊された瓦礫が埋もれていることを知った彼は、掘り起こしたいという衝動に駆られる。日本に帰ってコンペの案を作る作業に入り、出来上がった案を見てみたら、実は「見せたい」と思って設計したものと、従来の「消したい」と思って設計した建築は似ていたのだ。もしかしたら、この2つは対立したものではないのかもしれない、と思い始める。

有機的建築へ
人間は物事を二項対立と捉えて世界を整理しようとする。AかBか。固体か液体か。イエスかノーか。そういった思考への批判を行ったのが、ドゥルーズガタリだ。(ガタリの哲学には随分悩まされた思い出がある・・・。) 同様に20世紀の建築論も「見せる/消す」「入る/出る」「砕く/繋げる」のような二項対立で語られてきたが、行為としてしか存在できない生物は二項対立を軽々と超越する。そして、環境との関係によって生かされたり殺されたりする。このような謙虚な生命観に基づいた建築を隈さんは「有機的建築」として提示している。

隈さんの英語は非常に分かりやすかった。

エッセーの後には作品の写真が続く。美しい詩でも読んでいるような構成になっている。

表紙も大変美しい。