Beauty & Chestnut

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土いじり

室内で育てている愛木の忠雄さん(菩提樹)がようやく新芽を出した。半透明の緑色をした、小さな二枚の葉が、日光を求めてベランダの方に向いている。去年の夏に大きく成長したので、そろそろ一回りか二回りほど大きな鉢に植え替える必要があるのだが、これ以上大きくなると生活スペースにも影響が出るだろうと懸念して、結局まだ植え替えていない。そんなわけで、今年は成長を諦めていたのだけど、少しだがこうして新芽が出てきたのは、やはり嬉しい。園芸の楽しさを感じるのは、高校生の頃に宮崎に住んでいた時以来だ。家よりも庭の方が広かったので、母が庭師に依頼して、夏になれば雑草が伸び放題だった荒地を立派なガーデンに変えた。東京に引越をしてからは、庭とは無縁の生活を送っていたが、つい先日、宮迫千鶴さんの「海と森の言葉」というエッセイを読んで、ベランダ家庭菜園を始めた。このエッセイの内容をかいつまんで説明すると、東京に住んでいた著者はある時、伊豆に移住した。東京での生活は芸術家である彼女にとって刺激的であったが、同時に息苦しさと虚しさも感じていた。伊豆で田舎生活を始めてから、自然には人を癒す力があることに気づき、命とは何かを考察するようになる。

「土から生まれて、土に帰る」という言葉がある。土から生まれること、それはメタファーではあるが、事実でもある。私達は土によって生み出される作物を食べ、それによって生きている。成長も、性欲も、土が産み出しているのだ。そして、土に帰ること、これもまたたしかな事実だ。

命とは何か、を考え続けると「土」というキーワードにたどり着くことがある。著者はこの後、都会とは土を排除してきた空間であると述べ、「土の意味」や「育つ/育てる」とはどういうことかを学ぶ機会が減ったことにより、子育てに病理が忍び込む様になった、と展開している。そして、土の威力を意識して生活するようになった頃、ある人から次のような言葉を聞く。

「鉢植えの土でもいい、できるだけ土に触れていなさい。そうでないと、土いじりをしていない人は往生際が悪い。」
なんと的を射た言葉だろうと私は思った。土と往生際。それは土が、私達が死を前にした時の安心立命のしかた、「どこに帰っていくか」あるいは「どこに行くか」についての心の拠り所に深く関わっているということである。つまり、土の循環させる力を知っていれば、死の向こう側が見えるのかもしれない。

私は土手沿いに住んでいるので、それほど都会の息苦しさのようなものは感じていないが、家庭菜園を始めたくなったのは、何かこう、忠雄さんだけでなく「育てる」という手ごたえがもっと欲しくなったからだ。その少し前に「本当に美味しい食事とはどのようなものか」という考察も行っていた、という理由もあり、食材にも興味があったので、急いでホームセンターに土と苗とプランターを買いに行った。ついでに、食のクレオールも研究・実践してみようと思い、京野菜の種も通販で購入し、今では聖護院大根と紅人参と京水菜、茄子、キュウリ、プチトマトがベランダで横一列になって日々成長している。サラダを作ったときに余ったアボガドの種も一緒に植えたが、二週間以上経つものの、こちらはまだ芽が出てこない。

早朝に水をやっても、最近は陽射しが強いので、放っておいたら直ぐに土が完全に乾いてしまう。水分を失った茄子の苗のヘタレ具合が顕著なので、何度か様子を見て水遣りをしているのだが、ベランダに頻繁に出る様になって、余った水で、打ち水をする習慣が身に付いた。素足では歩けないほど熱くなったコンクリートに、腰ぐらいの高さから一気に水をまく。何度かやっていると、たまにバランスよく飛び散って、水の跡がアートになる。書道とは違って渇いたら跡形も無く消えてしまうのだけど、水が蒸発する過程で発生する湿気特有の生暖かい香りが何とも言えない程、叙情的で詩的な世界を作り出す。そう。屋外のプールサイドの香りだ。幼稚園ぐらいの頃、よく母親が連れて行ってくれた記憶がある。そういえば、泳ぎ疲れた後に買ってもらった桃のジュースがとても美味しかった。香りと記憶の関係。プルーストは、正しい。