Beauty & Chestnut

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日本の伝統 (岡本 太郎)

以前、サントリーミュージアムで開催された「アジアの玉手箱」展で、縄文時代に作られた土偶に出会った。日本史の教科書に出てくる、おなじみのアレである。日本史の授業は小学校、中学、高校で三度に渡り受けているので、土偶は教科書で何度も見ている。そのせいで、私はすっかりそれらについて知っているつもりであったが、本物を見たときの衝撃はすごかった。単純さによる力強さ、呪術的な禍々しさや異様さが、空間を満たしていた。形態は激しくデフォルメされており、曲線的で、生命力と躍動感にあふれ、混沌の象徴のようで、しばらく見ていたら跪きたいような衝動に襲われた。私は今まで何を見ていたのだろうか、と思った。

教科書の写真を見ることと、実物を見ることの違いは何だろうか。脳は視覚情報を「形」「色」「距離(奥行き)」などを別々に処理して再統合するが、写真と実物を見ることの決定的違いである「距離」のあるなしで、こうも見え方、感じ方が違うものなのだろうか。いや、それ以外にも何かあるはずだ。だとすれば、それは何だろうか。土偶に限らず、インターネットの台頭により、私たちは欲しい情報をすぐに手に入れることが可能になった。Google Earthを使えば、遠く離れた国の町並みも事細かく見ることが出来るし、好きなアーティストのコンサートだって自宅で見ることが出来る。それなりの臨場感を感じることが出来るが、やはり、その場でしか感じられない物もある。一種のアウラだろうか。それとも、感受性の問題だろうか。一向に興味が尽きない。

縄文土器の持つエネルギーに興味を持った私は、かねてから岡本太郎さん(以下、敬称略)に注目している。彼こそ、最も縄文人に近い感性を持っているアーティストだ、と半ば確信に近い物がある。岡本太郎は、芸術は大衆のものでなければならない、という考えの持ち主であり、パブリックアートを多く手がけた。最も有名なのは、大阪万博の「太陽の塔」である。当時、万博には「国威発揚」「技術礼賛」「産業振興」の三つの理念があり、いわば国家によるプロモーションや産業・技術情報の交換が最たる目的であった。「芸術は爆発だ」や「法隆寺は焼けて結構」という言葉で知られている通り、岡本太郎は個性的で独創的な人物で、組織に属することを嫌う自由人である。本来なら真っ先にプロデューサー候補から落とされるであろう岡本太郎が選ばれた背景には、小松左京梅棹忠夫らの推薦と丹下健三との協働経験が関係している。万博が終われば他のパビリオンと同様に廃棄されるはずであったこの作品が、今日もなお存在しているのは多くの人を惹き付けるからだ。この作品にまるわる裏話や制作秘話は平野暁臣さん著の『岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い』に詳しく書かれてある。

さて、岡本太郎にとって「伝統」とは何だろうか。ある日、竜案寺を訪れた時に観光客に遭遇する。彼らが石庭を見て「イシだけだ。」と言ったのを聞き、大いに笑い飛ばした。名園とよばれる竜案時の庭が、単純で素朴な価値観によってバラバラに解けた瞬間であった。

石はただの石であるというバカバカしいこと。だがそのまったく即物的な再発見によって、権威やものものしい伝統的価値をたたきわった。そこに近代という空前の人間文化の伝統がはじまったこともたしかです。
なんだ、イシダ、と言った彼らは文化的に根こそぎにされてしまった人間の空しさと、みじめさを露呈しているかもしれません。が、そのくらい平気で、むぞうさな気分でぶつかって、しかしなお、もし訴えてくるものがあるとしたら、ビリビリつたわってくるとしたら、これは本物だ。これこそ芸術の力であり、伝統の本質なのです。

彼が言いたいのは、素人こそ本当の批評眼を持っている、ということである。専門家には約束事や因縁や故事などの知識があるゆえに、かえって本質を見失っている節がある。こういった経験は私にもあって、先日、価値ある建築を「まわりくどい」と言い放った某氏の炯眼には驚いた。(しかし、厳密な意味で、これが「炯眼」と呼べる物なのかは、実はわからなかったりする。多分、違うような気がするが、あえてこれ以上言わないでおこうと思う。) また同様に、誰某の作品だから、という理由のみで価値が高まる場合がある。そういった意味で、名も無き縄文人が作った土器・土偶にあれほどまでのパワーがあるのは、奇跡的ですらある。このパワーは弥生土器からは見られない。一般に、社会学者や文化人類学者らから「狩猟採取から農耕にシフトしたせいである」と言われている。原始社会では全てが宗教的であり、呪術的である。獲物を狩るために呪術をかけ、殺した獲物の霊を鎮めるためにまた呪術を行う。食べ物は大切に扱わないと、精霊が怒り、次の狩りがうまくいかないと信じられていた。獲物は神でもある。

この原始のたくましさ、ゆたかさは超自然的な世界とのはげしい、現実的な交渉のうえになりたっています。自然と人間との、生命のバランスは神秘的であり、超自然的に動的であり、弁証的です。あの怪奇で重厚な、苛烈きわまる土器の美観にひめられてあるものは、まさにそのような四次元との対話なのです。

もはや戻らない、縄文への思いは募る一方である。

追記:先日、墓参りで御成門へ行った帰りに岡本太郎記念館に寄って来た。表参道駅から徒歩7,8分のところに立地している。
http://www.taro-okamoto.or.jp/

岡本太郎記念館(表)

太陽の塔(レプリカ)

・アトリエ(館内)

・庭のオブジェクト

岡本太郎著『日本の伝統』

・平野暁臣著『岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い』