Beauty & Chestnut

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粘菌 その驚くべき知性 (中垣 俊之)

今月の上旬に京都大学で数学入門公開講座を受講してきた。連日の猛暑のなか、滞在先の尼崎から京都まで、なるべく直射日光が当たらなく、かつ時間の掛からないルートを選択したつもりだ。会場である数理解析研究室は農学部のすぐ傍にあって、広い京大キャンパスの中でも比較的僻地に存在する。道中、五山の「大文字」(東山如意ケ嶽)がうっすらと見え、私は人為的・人工的な五山送り火というイベントがあまり好きではないが、京都にいることを強く実感した。夏は殺人的な暑さだし、冬は極寒で風土的には何ら良いところが見当たらない場所だけど、詩的で叙情的な場所であることには違いなく、独特の温かみがあるのも事実である。講義の受講者は中高年の男性が多く、中には数式のミスを指摘するような、私のような素人から見て「数学愛好家」のレベルを超越したような人もいた。彼らがどこから来ているのか知らないが、「最新の数学」というお題の元に場を共有し、講義が終わればそれぞれの場所に帰っていくという一連の流れから、ふと、自分を含め、我々はやはり百代の過客だなぁ、と妙に感慨にふけった。これも、京都という場所が大きく影響しているのだろう。

1日3コマの講義はそれぞれ「グラフ理論から組み合わせ最適へ」「自然現象を数理的に解析する -自己組織化現象の数理解析-」「極小モデル理論の発展」という演題で、私は朝から夕方まで数学漬けの日々を送った。グラフ理論トポロジー入門書で、自己組織化現象は複雑系の入門書でそれぞれ軽く触れていたけれど、極小モデル理論というのは今回初めてその存在を知った。代数幾何という分野があり、図形を多項式で定義して代数的に扱い、これらの代数多様体と呼ばれるものを抽出する理論の事を極小モデル理論と言うらしい。これは本当に手ごわく、全く予備知識が無かったので内容が理解できなかった。さて、2限目の自己組織化現象についての講義を担当してくださった上田助教授は粘菌の研究もしていて、最終日にその研究内容も紹介してくださった。実は講義よりも、粘菌の方がよく記憶に残っているのが心苦しい。本書、「粘菌 その驚くべき知性」はその時に紹介されたものである。

粘菌といえば、南方熊楠が真っ先に思い出されるが、実際に粘菌がいかなるものか私は知らなかった。ウイルスとかばい菌と同等のものぐらいにしか思っていなかったのだが、実は非常に興味深い生き物である。生物は区別の大きさから「界」「門」「網」「目」「科」「属」「種」と分けられ、粘菌は一番大きな「界」では「原生生物界」に分類されている。風に乗ってどこからともなく胞子がやってきて、好ましい条件下で胞子が割れてアメーバが出てくる。このアメーバには2つ以上の性があり、接合して10時間ごとに核分裂を繰り返し、大きくなっていく。この巨大化したものを「変形体」といい、変形体同士が出会うと融合し、さらに大きな変形体へと成長する。生育環境が悪くなると胞子を作り、休眠する。このように成長する粘菌は、驚くことに単細胞生物である。核分裂はするが、細胞分裂はしない。しかし単細胞といえども、その生態システムは単純ではない。そして、単細胞生物の面白さは「単なる物質が集まって生きたシステムに化ける」ところにある。

生きたシステムとは、さまざまな機能を発揮します。取り巻く環境をセンシングしたり、情報を処理したり、移動したり、エネルギーを代謝したり、生殖したり、恒常性を維持したり、体を形作ったり、感染症に対して防御したり、養分を循環させたり等々、本当に様々です。

このように、構造は単純でありながら想像以上に複雑な機能を有する。一般に、生物の情報処理は「自立分散方式」とよばれる、いわば「司令官はなし、各人自律的に動くのみ」という方針によって行われている。個々のシステムが自律的に機能し、たんなる足し算をはるかに超えた現象を生み出すことを創発というが、粘菌も十分に創発的であると言える。

その粘菌の研究で、著者の中垣氏はある年、イグノーベル賞を受賞する。なんと、脳を持たない粘菌が迷路を解いたのだ。迷路の入り口と出口に餌をおき、その中を粘菌で満たすと、半日ほどで入り口と出口の最短経路を結んだ。常に最短・1本の経路で結ぶわけではないが、おおよそのところは最短ルートを見つける結果になる。これを「適応ネットワークモデル」という。この研究はカーナビにも応用されていて、目的地への最短ルートの検索に一役買っている。粘菌は光を嫌う傾向があるので、(粘菌が這う)地図上で渋滞している経路に光を当て、粘菌の進む速度を遅らせることができる。地図上には無数の道路があるので組み合わせ爆発と呼ばれる、膨大な組み合わせ数が存在する故に時間が掛かりすぎて最適解を求められない問題が考慮されるが、粘菌は道路が無数にあっても最短経路を見つけ出すのにそれほど時間がかからない。実に驚異的な生態である。尼崎から京大までのルートを粘菌に這わせたら、どのような解を出しただろう。私のルートは果たして正しかったのだろうか。ふと、読書中にそんなことを考えた。

かつて南方熊楠は、粘菌を研究している折、こんなことを柳田国男に書き送っている。

粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物にて、英国のランカスター教授などは、この物最初他の星界よりこの地に墜ち来たり動植物の原となりしならん、と申す。生死の現象、霊魂等のことに関し、小生過ぐる十四、五年この物を研究罷りあり。

なんと南方は粘菌から「生死の現象」や「霊魂」について思いを馳せたらしい。本書は、そんな奥深い粘菌の生態をわかりやすく、かつ面白く紹介してくれる、大変興味深い一冊である。