Beauty & Chestnut

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禅から食を考える。応量器展鉢のワークショップ受講

応量器展鉢と呼ばれる禅の食事作法のワークショップを受講してきた。最初に雲水さん達のパフォーマンスもしくはお手本を拝見し、その簡易版を彼らの指示のもと、実践する。展鉢は朝食、昼食、夕食ごとに違った手順があるらしく、今日実践したのは一番簡単な朝食のもの。本当は三種類の器を用いるが、今回は初心者向けに一種類の器にお粥と香菜とよばれる沢庵、胡麻塩と梅干を乗せて、作法に従って食した。細かい作法はここでは省略するとして、実際に食べ始めるまで結構な手間がかかる。席に着くところから既に儀式は始まっていて、座るための作法も存在する。席に着いたらまずは長版と呼ばれる儀式を行い、仏様にお供えをして(注:この2つはWSでは省略されていた。)、何種類かの偈(呪文)をとなえ、清人とよばれる給仕が一人一人にお粥や香菜を順に盛り、全員の準備が整ってやっと食事をとることが許される。そう。ここでは自分勝手な振る舞いや自己流なるものが一切禁止されているのだ。

しかし、この一見堅苦しそうな展鉢は、実はとても合理的に出来ている。たとえば、沢庵は最後まで1枚残しておく必要があるが、これは最後に器にお湯を注いで、残ったお米と汁を集めるためである。こうすることで、器を別途洗う必要がなくなり、食事を終えると共に後片付けまで終えてしまうのだ。講師の風間天心さんは言う。

「元々、展鉢というものは人に見せる物ではないのだけど、とても美しくて合理的なのです。覚えることが多くて大変なのですが、作法を守ることで、より美味しく食べることができます。これを僧侶だけのものにしておくのは勿体ないと思いまして。一般の方は普段展鉢を行うことはありませんが、食事の時にちょっと姿勢を良くしたり、キレイに食べたり、残さず食べたりするなど、ちょっと工夫してみるだけで、随分と違ってきますよ。」

また、作法を守ることで、自分を肯定できるようになった、と天心さんは言う。

「自分を肯定できるようになると、他者も肯定できるんです。作法は教えられるものですが、それを続けるのは自分の意思。そして、自分が実行することで、まわりにも良い影響を与えます。」

私たちは食べずに生きることはできないが、その食事という行為をないがしろにしてはいないだろうか?食べ物があることがあたりまえすぎて、感謝の気持ちを忘れてはいないだろうか?また、その食べ物の材料がどのように作られているかを考えることはあるだろうか?

以前、何かの記事で、魚の切り身しか見たことのない子供が、魚とは切り身のことで、海ではその切り身が泳いでいるのだと思っていた、という話を読んだ事がある。この話を聞いて「いやぁ、最近の子供は魚も知らないのか。」と笑うことは出来ない。落花生は地中に実を付けることや、モロヘイヤの原型や、カボチャがどの程度保存できるのかを知っている人はごく少数だと思う。魚の件と同じで、知識として知っているか、知らないか、の違いだけで、実は大して変わらない。必要なものはスーパーでお金を出せば買える。それゆえに、それ以上の事を知る必要がないのが現代で、簡略化・簡易化の対価として失った物は大きい。食育という言葉が叫ばれるようになって、食事やその食材を生み出す農業も注目を集めるようになったが、健康のため、という理由以外にもっと根源的な「なぜ食が大事なのか。なにがどう、ありがたいのか。」を考えさせられるワークショップだった。

「いただきます。」という言葉が、とても素敵なものに思えた。この言葉を産み出した日本という国を、先人達を、私はとても誇らしく思う。

素敵な雲水さんたちと記念写真。一番右側の雲水さんが、今回のWSのリーダーで僧侶兼アーティストの天心さん。仏教と日常、アートの話も伺ったので、それについてはまた後日。