Beauty & Chestnut

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マノン・レスコー (アベ・プレヴォー)

マノンをマルグリットに贈る。
慎み深くあれ。

デュマ・フィス著「椿姫」の一文だ。主人公(聞き手)はある日、亡くなった娼婦マルグリットの遺品の競売に出かけたら、一冊の本「マノン・レスコー」が売られていた。他の遺品が高値で売れていく中、この本は誰も入札しようとしない。競売人の「書入れがあります。」という言葉に、何か特別な意味があるに違いない、と思った主人公は迷わず落札する。献辞として、上記のメッセージが記されていたのだ。後日、この本を縁に、一人の男性と出会い、物語は始まっていく。マノン・レスコーとはどういう小説なのか。なぜデュマ・フィスはこの小説を持ち出したのか。気になったので読んでみることにした。

マノン・レスコーは最初の娼婦文学と言われている。娼婦の歴史は古いが、誰もそれを文学の題材として取り扱ってこなかったらしい。この本のオリジナルが出版されたのは1731年。グーテンベルク活版印刷が1445年頃。約300年という期間と、出版と物語の歴史を考えるとにわかに信じがたいが、文学史の研究は後で嫌と言うほどやらなければいけないのだから、当面は静かにこの仮説を受け入れておこうと思う。さて、読み始めてすぐに気付いたのだが、マノンも椿姫も、物語の構成が同じである。物語の聞き手となる人物が最初にいて、何らかの縁で主人公に出会い、彼らの悲劇の始まりから顛末までを聞いて記録するのである。おそらくデュマ・フィスもモーパッサン同様、この本に強く感銘を受けたのだろう。多情な女主人公と、それに振り回される純情な主人公。彼らの仲を割こうと画策する人物。困難を乗り越えるたびに強まる想い。そして、(第三者から見て)悲劇的な結末。マクロ的に見れば似ているところが少なくは無い。

なのに、マノンとマルグリットは職業こそ同じであれ、性格は違うのである。マノンには驚くほど罪悪感がない。無邪気と言うべきなのだろうか。どこか痴人の愛のナオミを彷彿させる。ナオミもマノンも目の前の誘惑に、極端に弱いのだ。貧乏と退屈を嫌うマノンは、それを満たしてくれる人物が現れると、あっさりと主人公を捨てて乗り換えてしまうのである。主人公は何度も裏切られるが、それでもマノンを諦めることが出来ない。マノンはマノンで、時折主人公を思い出しては恋しがり、彼女を奪還しにきた主人公と気まぐれに復縁するのである。しかし、駆け落ち同然の生活をしていた彼らの暮らしは貧しくはないものの、マノンの気持ちを満たすほど豊かではない。そして、またマノンは別の富豪のもとへと去ってゆくのである。主人公グリュウは彼女を自分のもとに留めておくためにギャンブルに手を出し、詐欺行為を重ねていく。大事に育ててくれた父親を捨て、いつも自分を気遣ってくれる友人を利用しては裏切り、ついには逮捕され殺人を犯してまで監獄破りをしてしまう。若気の至りもここまでくれば痛快であると言えなくも無い。デュマ・フィスはマノン・レスコーについて「哀切際なりない物語である」と登場人物に語らせているが、哀切極まりない物語なのか、哀切を装った喜劇的な教訓物語なのか、正直私には判断がつきかねる。心が狭いと何かと角が立つものだが、寛大であれば角の方から突き刺さってくるものなのかもしれない。寛容であり続け、そして同時に知恵をつけ続けなければ、なかなか生きづらい。

デュマ・フィスがマノンを持ち出したのは、マノンとマルグリットを比較し、ひいては娼婦そのものに対して寛容であることを訴えるためのように感じられる。

わたしは、わたしと同時代の人々に向かって訴える。(中略)
悪はむなしいものに過ぎないのだ。善なるものに誇りをもとう。わけても、絶望しないようにつとめよう。母でもなく、妹でもなく、娘でもなく、また人妻でもない女、そういった女をさげすまないようにしよう。家庭に対してはもっと尊敬の念を抱き、利己主義に対してはもっと寛大な目で接してやろう。神は、かつて一度も罪をおかしたことのない百人の正しい人々よりも、ひとりの罪人の悔い改めたのを喜びたもうものであるから、われわれは神をお喜ばせするようにつとめようではないか。(椿姫 P35)

西洋版の悪人正機説だろうか。

マルグリットは愛する者のために身を引き、一人で寂しく死んでいったが、マノンは富と快楽を追求し続けた結果、流刑地で彼女を愛する男性(主人公)に抱かれて死んでいった。精神か物質か。悔い改めたのは機会により恵まれたマノンではなくマルグリットであったのだが、幸せだったのはどちらなのだろうか。人を心から愛することと、幸せになることは別の事なのだろうか。なんだか、マノン・レスコーの書評なのか、それとも椿姫の書評なのか、わからなくなってきた。いずれにせよ、残された男たちは悲劇的である。