Beauty & Chestnut

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全ての装備を知恵に置き換えること (石川 直樹)

犬もコタツで丸くなりそうな程の寒波と記録的な大雪が関東全域を襲った。トンネルを抜けなくても雪国である。郊外の交通機関は大きく乱れていたが、それでも私は「そのうちチェーンを付けたバスが来るだろう」と淡い期待をしていた。土曜日の昼の事である。しかし1時間、2時間とただ時間だけが経過していき、一向に復旧の目途が立つ様子もない。タクシー会社に片っ端から電話しても全く繋がらない。自宅まで徒歩1時間、しかもハイヒールである。これは困ったことになった。

その時私には選択肢が3つあった。1つはついさっきまで居た実家に引き返すこと。2つ目はこのままバスの復旧を待つこと。そして最後は歩いて帰ること、である。平坦な5キロ弱のルートと高低差の激しい4キロのルートの2種類がある。後者のルートは全く土地勘が無いのでスマホの地図アプリが命綱となっている。充電の残りは後20%。短いルートにはリスクがあるが、1キロ以上の差は魅力的だ。たかが1キロであるが、足元が悪い状態での1キロは実質的に数キロ分の差と等しい。そう思い、土地勘のない短いルートを選ぶことにした。そして数分後に道に迷った。無情にもスマホの充電は10%となった。ふと脳裏に、これは小さな冒険なのではないか、という考えが過った。それと同時に、1年近く前に読んだ石川直樹さんの本の存在を思い出した。

写真家であり、冒険家でもある石川直樹さんの存在を知ったのはNHKのドキュメンタリー番組がキッカケだ。たまたまテレビを見ていたら、短髪の似合う爽やかな好青年が映し出され、一気にファンになった。講演会にも足を運んでみた。テレビにも出るぐらい有名な冒険家なのに、話は面白く、物腰は柔らかい。そして、幅広く深い教養を備えた才色兼備な人物である。その石川直樹さんがこれまでの旅を綴ったのが本書「全ての装備を知恵に置き換えること」である。高校時代にインドへの1か月間旅行したこと皮切りに、23歳の時には北極から南極までの人力踏破を、その後は七大陸最高峰登頂を(当時)世界最小年で達成したという実績のある本物の旅人である。旅先で体験した事、感じたことなどが綴られており、何度も読み返しては「いつか私も」と憧憬したものである。

石川直樹さんにとって旅というのは生きることそのものだ。「この先には何があるのだろう」という期待感と、「今ここで死んだら誰にも気づいてもらえないだろう」という孤独と緊張感、そして生きている実感を得るのだという。安全な場所で終わらない日常を生きている私にとって、彼のいう「旅」とは未知の世界の他ならない。空想の世界で彼の旅路を追っているだけだった私に、まさにちょっとした冒険の機会が訪れたのである。もしかしたら家にたどり着けないかもしれない。だけどこの知らない道の先には何があるのだろう。ちょっとワクワクしながら、ハイヒールでズカズカと雪路を進んだ。

定期的に運動する習慣があるにも関わらず、雪道というのは思っていた以上に大変なものであった。転倒に転倒を重ね、安易に徒歩を選択した事を後悔した。しばらくすると耐性と知恵が付いてきて、楽に歩けるようになってきた。かかとから着地して体重をかけることでヒールがアイゼンとなり、坂道も割と楽に上ることが出来た。時に歩道から抜けて雪の薄い車道を走ったり、まだ誰も歩いていない場所に思う存分足跡を付けたり、今自分が置かれている状況を忘れて非日常を楽しんだ。私の知らない世界が大雪によってこんなに身近な所に現れた。たまになら、大雪も悪くない。最終的には、途中で道を聞いた人がたまたま同じ方面へ向かっていたという幸運に恵まれて無事に帰宅することが出来た。

もっと知らない場所へ行きたい。このワクワク感をもっと味わいたい。そんな思いが強くなった。

書を捨てよ町へ出よう。町へ越えて自然に帰ろう。冒険とは人生のスパイスである。