Beauty & Chestnut

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つゆのあとさき(永井 荷風)

先日の三連休前半は台風の影響で外出が出来なかったので、久々に荷風でも読もうかなと思い、「つゆのあとさき」を書架から出してきた。書架に詰めこんだ本の数は多いけれど、きちんと精読したものや、2回以上読んだ本は意外に少ない。そういうわけで、時間もあることだし、厚さ1cmも無い本書をじっくりと読んで咀嚼してみることにした。荷風の小説は夏の終わり~秋ぐらいに読むのが個人的に好きなので、時期的にも丁度いい。また、東京を舞台とした作品なので「あぁ、あの辺りは昔はこんな感じだったのね」と親近感のようなものも沸いてくる。折角なので、東京という町の変遷についても「東京都市計画物語」も絡めて紹介したい。


■登場人物
君江:主人公。埼玉の丸山町出身。実家は地域で有名な菓子屋であるが、田舎でごく普通の女性として生活することを嫌がり、東京へ出てきた。物やお金に対する執着心が薄く、銀座のカフェーの女給として自由気ままなその日暮らしをしている。貞操観念は乏しいが、人情味があり、明るい性格をしている。古い時代の価値観に縛られず、新しい時代の女性として描かれている。

京子:君江が小学校にいた頃からの友人。牛込で芸者を経験した後に川島の妾となるが、川島が会社の金を使い込んで投獄されてからは私娼、女給として生計を立てている。逆境でも悲嘆にくれることなく、たくましく生きている。君江同様に世間の価値観や常識に縛られずに生きる世渡り上手な女性。

清岡:文筆家。書いた小説が運よく世に認められ、売文の富を得た。その後、芸者遊びに夢中になった。女優のパトロンになったが別の男性に取られてしまった折、君江と出会い、彼女のパトロンになる。非常に嫉妬深い性格で、作中では妻と呼べる存在がありながらも君江に執着し、何度も復讐を試みる。

鶴子:入籍はしていないが、鶴岡の妻的立場の女性。元々は別の男性の妻であったが、清岡と恋仲になり離縁。鎌倉で1年ほど清岡と恋愛生活を送るが、清岡が文芸で成功してから芸者遊びに夢中になったのが原因で、疎遠となる。かつての恩師が助手を必要としている事を知り、留学する。ある意味、本作品で最も幸せになった女性である。

川島:京子の旦那であったが、会社の金を使い込んだのが露呈して懲役へ行っていた。君江が上京してきた頃に事務員の仕事を斡旋したり、女給としての生き方を教えた。物語終盤に登場し、本作品が描く「人の世の儚さ」「人生の儚さ」の雰囲気を一層強めるための役割を果たした。

矢田:君江の客の一人。自動車輸入の会社を経営し、一財産築いた人物。カフェーへは頻繁に訪れ、君江の窮地には入れ知恵を授けるなど、サポートを行った。


■あらすじ
銀座にあるカフェー「ドンファン」の女給として働く君江は年末から続く気味の悪い出来事を気にかけていた。衣類が切り裂かれたり、身に付けていたものが盗られてしまったり、自宅の押し入れに猫の死がいが入れられていたのである。客の勧めで占い師に見てもらったが、いまいち要領を得ない答えが返ってきたので気に留めない事にした。

しかしこの事件は君江の上客である清岡が行ったものであった。彼はある日、君江が想像以上に異性に対して奔放な生活を送っていることを知り、逆恨みしたのである。君江のようなふしだらな女性は痛い目に合うべきだ、という考えに執着した清岡は君江を追い詰めようとして、先述の嫌がらせを行ったり、新聞紙に君江を褒めたたえるような体裁を装いながら中傷する記事を投稿した。

そんな清岡には妻といえる存在がある。しかし、小説が売れて少額ながらも財産を築いてからは妻を顧みることなく、芸者や女給に夢中になる。妻はそんな状況を嘆きながらも、かつての恩師が学術研究のために人手が必要な事を知り、その好機を活かして清岡の元を去った。清岡はその後君江の居るカフェーには近づかなくなったが、君江への執着は捨てきれなかった。

事件は解決しなかったが終息を迎えた頃、君江の前にかつての恩人であり、京子の旦那である川島と再会する。懲役を終えた川島はかつての精力的な様子と打って変わって、どこか諦観めいた雰囲気を漂わせていた。君江宅で酒を飲み交わし、君江が眠っている間に遺書を残して去った。遺書には君江への感謝の気持ちと、この世への思い残しがない事が綴られていた。


■作品の構成
本作品は9つの章に分かれている。君江に気味の悪い出来事が続き、占い師に見てもらう1章。君江の女給としての日常が描かれる2章、3章。君江が体験した気味が悪い出来事のカラクリが明かされ、物語が動き始める4章。鶴子が清岡の心が既に他の所にあることを嘆き、鶴岡の父に心情を吐露した5章。君江への逆恨みから再び復讐心に駆られた清岡が動きはじめ、窮地を乗り越えるため君江が奔走する6章~8章。この3章は緊張感にあふれ、物語最大の盛り上がりを見せる。騒動の終息と川島との再会、別離の9章。起承転結に分けると、「起」が1章、「承」が2~5章、「転」は6~8章、「結」は9章であると言える。また、構成を序破急という視点で見ると、「序」は導入~君江の日常を描いた1章~3章、「破」は物語が動き出し、最大の山場を見せる4章~8章、「急」は結末となる9章が該当する。全体的に退廃的・荒廃的な雰囲気が漂う作風の中、9章最後の川島の遺書によってその印象は決定的なものとなる。


■都市の描写について
「つゆのあとさき」は非常に具体的かつ詳細に東京という場所が描かれている。例えば、「松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四軒間口の中央に弓形の広い出入り口を設け、(後略)」(P.18)や、「府下世田ヶ谷町松陰神社の鳥居前で道路が丁字形に分かれている。分かれた路を一、二町ほど行くと、茶畠を前にして勝園時という扁額をかかげた朱塗の門が立っている。路はその辺から阪になり、遥かに豪徳寺裏手の杉林と竹藪とを田と畠との彼方に見渡す眺望。世田谷お町中でもまずこの辺が昔のまま郊外らしく思われる最も幽静な所であろう」(P.63)など、読者は一度も訪れた事が無いとしても容易にイメージできるほど細かく書き込まれている。

さて、そんな東京であるが、関東大震災後の帝都復興事業として既成市街地では世界で初めて区画整理が行われた地域である。(『東京都市計画物語』P.46) この事業は1964年の東京オリンピック開催で一区切りつき、本日の東京という都市に多大な影響を与えた。当時から問題視されていた通勤ラッシュは今日も引き継いでいるが、晴れの日には黄塵が舞い、雨の日は水はけが悪く「東京にはドジョウが住む」と言われていた状況は改善されている。

かなり具体的な都市の描写は、本作品において読者を惹きつける役割を果たした。たとえ東京に住んだことが無い読者であっても、具体的な描写によって東京がどのような都市なのか垣間見ることが出来て、生きる時代が異なる読者でさえも「こんな雰囲気なのかな」と想像することができる。登場人物たちにとって日常の一コマでしかない東京という土地も、日常の舞台を描写しきることで時代背景考察の資料としても価値が高い。しかし、永井荷風は登場人物の心象と無関係に都市を描いたわけではない。

物語後半で川島が君江への思いを拗らせ、復讐の念に駆られている状況で、「空は真暗に曇って、今にも雨が降って来そうに思われながら、烈風に吹きちぎられた乱雲の間から星影がみえてはまた隠れてしまう。路傍の新樹は風にもまれ、軟らかなその若葉は吹き咲かれて路の俵に散乱している。(後略)」(P.123)のように丸の内を描写し、川島の心境と連動させている。大半が物理的な描写として都市の状況を綴っているなか、数少ない「登場人物の心境と連動した舞台描写」の一例である。


■おわりに
登場人物の紹介、あらすじ、作品の構成や都市の描かれ方を通じて、本作品の特徴が当時の世の儚さや厭世的な雰囲気に満ちている事や、東京という都市が綿密かつ具体的に描かれている事、稀に作中人物の心象と連動して東京を描いていることについて触れてきた。永井荷風の作品は他にも多数存在し、それぞれ歴史的・文学的価値の高い作品である。本作品を選んだのは、描かれている土地が自分にとってある程度なじみのある事、登場人物が多すぎず少なすぎず適切であること、心理状態が描かれている事の3点であることを最後に述べておく。現在、2020年の東京オリンピックに向けて東京は急速に変わりつつある。しかし、そこで暮らす人々の生活や文化は今後も脈々と引き継がれ、東京と言う都市の歴史的遺産がますます豊かなものとなることを願う。


永井 荷風『つゆのあとさき』岩波文庫、2009年26版


越澤 明『東京都市計画物語』ちくま学芸文庫2001年1版