Beauty & Chestnut

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生命科学シンポジウムを終えて思ったこと。

生物というのは、非常に精密にできた機械なのだろうか。生命現象の理解が深まるにつれて、好みや行動一つ一つに非常に合理的なカラクリがあることが分かってくる。

たとえば、C.エレガンスという線虫が、物質Aを好むか好まないかは単純な学習で決定される。どのC.エレガンスも同じ学習で同じ反応が起きて、同じ結果に至る。そこに、C.エレガンスの個性はない。蛾のフェロモンひとつにしても、同じことが言える。そこにあるのは走性行動であって、あの雄に運命を感じたから、という意思ではない。例外的に規則に当てはまらない突然変異体も、どういうメカニズムでそう振舞ったのか、ドーパミンやらインスリンの分泌がどうのこうの、といった説明がされている。

ふと、今、「メカニズム」という単語を打ってはっとした。別に「メカニズム」でなく「機序」でもかまわない。意味から判断して、どちらも元々は「Machine(機械)」からの派生語だということがわかる。一般システム理論や複雑系を勉強していると、自分自身を含め、世界はシステムに満ち溢れていることに気づく。生命体は精密な機械であり、システムに支配されている。いたるところに、機械論的唯物論へ傾倒する罠があり、あっさりとそこに嵌ってしまい、自分でもうんざりすることもある。ルーシュという精神療法研究者も、システム研究における危険について「システムに傾倒すると人は交換可能の消耗品になってしまう」と言っている。どこかで一線を引く必要があるのかもしれない。だけど逃れられない何かが、システム理論にはある。システム理論についてはまだ表面的な事しか知らないが、私を強く惹きつける。考え出すと、とまらない。発狂への誘いも、タナトスの一種かもしれない。

一方、ショーペンハウアーは、「世界は私の意志の表象なのだ。」と言っている。何かのタイミングでクオリアや自分の中から湧き上がってくるエラン・ヴィタール(生命の躍動感)に触れたとき、心の底から「あぁ、私は生きているんだなぁ。」といった感銘を受ける。このとき世界は私の表象そのものである。たとえ地球の裏側で戦争が起きていたとしても。
私が生気論を支持していないことは既に述べた通りだが、システムにうんざりして、こういう非「システム支配的」な考え方や生気論のような思想に触れると泣きたい衝動に駆られる。それなのに、本屋でドゥルーズ,ガタリを手にとってレジに向かう私は、もはや末期症状かもしれない。だけど、それを憂いる事ができるのは、逆説的だが希望でもある。