Beauty & Chestnut

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湯河原で見たおぼろ月

先日、湯河原へ行く機会を得た。宿の近くに町立の美術館があり、そこで企画展として平松礼二の絵画が展示されていた。おそらく国立新美術館加山又造展以降だと思うのだが、いつの間にか私は西洋画から日本画へと好みがシフトしていた。あまり美術に造詣は深くないのだが、とはいえ人並みに見てきたので言うとすれば、食の好みが変わるのと同様で、絵画の好みが変わる事が往々にある。中学や高校の頃はシュールレアリズムが好きで、ダリやマグリットを始めとするシュールレアリズム系作家の画集を集めていた。その後、現代アートの奇抜さ、それも作品自体の素晴らしさではなく、これが作品になるのかという衝撃と解説の難解さに惹かれた。しばらくして「なぁんだ、解説が一人歩きしているだけじゃん。」と思うようになり、興味の対象が「日本」へ移る前後に先にあげた加山又造の絵画に出会った。灯台下暗しなのか、もしくは青い鳥は身近なところにいたのだ、というのか、「地味だ」という固定観念により食わず嫌いだった日本画が想像以上に洗練されていた事に気づき、見ていると蒸し暑い夜に西瓜を食べた時のような、何とも言えない清涼感を得ることがある。(ちなみに、私は好んで西瓜を食べないが、西瓜を食べた時の、あの控えめな清涼感は素晴らしいと思っている。)

話を湯河原美術館に戻すと、企画展、常設展があり、先に平松礼二を見た。そこにあった、山と川と花をモチーフにした、近くのものを小さく、遠くのものを大きく、文字通り逆遠近法を用いて書かれた絵画(屏風)があり、私はそれが大変気に入った。どうせならもう少し植物の名前と咲く季節ぐらいは知っておけばよかったかな、と後悔した。たとえば、相反する季節に咲く花が一枚の絵画で同時に咲いていたら、それは時空を超越した絵画であるし、より一層作者の意図や心情などに近づける気がする。絵画の構造を把握することは、技巧的であって純粋な感動から離れるようでありながらも、迂回してより深い感動へと到達することが出来るものだと信じている。美術館を楽しもうと思ったら、大雑把な美術史と、展示空間、つまり、照明の明るさや壁の色や動線を意識した設計になっているか、そして外観(建築)の意匠を読み取れる建築学の知識さえあれば良いと思っていたが、それだけでは不足に感じる様になった。美食家で有名なブリア・サヴァラン卿は、彼の著書「美味礼賛」で広範囲にわたる知識を披露しているが、どうせ何か感想を述べるのなら、彼のような博覧強記を目指したいと思う。

一つ後悔したのが、よく美術館の入り口付近に置かれている収蔵作品一覧を貰い損ねてきた事だ。平松礼二展のあとに常設展に移動して、そこで見た朦朧体の墨画、タイトルは「おぼろ月」だったと思うのだが、それが後になってから気になってきた。朦朧体というより、色の無いパウル・クレーのような感じ、と言ったほうが伝わりやすいかもしれない。その画では徹底的に「線」が排除されていて、言ってしまえばただ淡い墨が広がっているような画に過ぎないのだが、タイトルを見なくてもそれがおぼろ月を描いていることが分かる。対象をどこまでも観察しつくしたが故に描ける、写実を超えた写実ではないだろうか。月と雲と時間(夜)と作者の情緒による創発現象と言っても良い。印象派全般にも言えることかも知れないが、物を写すのではなく、そこに情緒が加わることで、表現の可能性と方法は飛躍し、画は跳躍する。絵画の感動には二種類ある。見たときにその場で感動するか、後で思い出して感動するか。言い換えれば、後者は鈍痛のようなものである。しかし、甘美な痛みだ。まさに「おぼろ月」がその類の絵画で、作者の名前が分かれば画集などで再会を果たすことが出来るが、分からなければ分からないなりに、一体あれは誰だったのかしら、としばらくは余韻浸ることが出来そうだ。今すぐにその正体を知りたいわけではないが、いずれどうにかして知りたいと思う。