Beauty & Chestnut

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秋の夜。乃木坂にて。

仕事帰りにぶらりと乃木坂に寄った。
特に用事は無かったけれど、最終的にミッドタウンに寄って和菓子でも買って帰れたらな、という程度だった。改札を出て、美術館方面とは反対方向に向かう。階段を上がるとすぐに地図があったが、知っている場所が何も書かれていなかった。さて、これはもしかしたらミッドタウンにもたどり着くのに苦労しそうだ、と思ったが、もうすっかり秋の気候で、風が気持ちよかったので、道に迷うのも悪くないか、と歩きだす。

ふと、左側に陸橋があったので、上ってみる。どこの道に出るのかはわからない。あたりには人はいなくて、自分ひとりの空間となる。何気なく耳を澄ますと、鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。以前京都の鈴虫寺に行ったときに、大量の鈴虫がゲージの中に押し込められていたのを見て卒倒しかけたが、やはり姿さえ見えなければ鈴虫は良いものだ。なんとなく、そんな秋の風情に一人酔いしれていると、はて、これは本当に鈴虫なのだろうか、と疑問が沸いてきた。鈴虫とコオロギの鳴き声の違いがわからない、というわけではなく、回りは住宅街で、公園や木があるわけでもないのに、どこから聞こえてくるのだろうか。

人は大自然を前にしたとき、その雄大さにいたたまれなくなる。自然の中に何らかの力を感じ、癒される。そして、「やはり大自然はすばらしい」と帰着する。一方で、人は海や川の波音の入ったCDを聞いた時にも癒しを得て、同様に自然はすばらしい、と帰着することができる。大自然と、そこから発せられる音を録音した、もしくは人工的に作られているのかもしれない模擬的な自然との間には決定的な違いがある。されど、聴覚はそれを正確に区別することが出来ないこともある。目を閉じて本物の波の音とCDの波の音を区別できるか、と聞かれたら、それは難しいと答えざるを得ない。だけど私は人工物より天然物で感動したいと思う。たとえ違いが区別できなくても。

ふと、われに返ったとき、さっき鈴虫の鳴き声を聞いたときの風情漂う感じが私の中から消え去ってしまい、余計なことを考えるんじゃなかったな、と後悔した。何かが消失したような、物悲しい気分になった。