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社会学入門 (見田宋介)

私が社会学に対して興味を持ったとき、初めて読んだのが若林幹夫著の「社会学入門一歩前」だ。その次に本書をチョイスした私は、「入門前」→「入門」という初心者の王道ルートを辿ったと言える。(入門の次、つまり現在ルーマンに挑戦しているのは若気の至りか単なる無謀であることを承知しているが、どうしても好奇心に負けてしまう性質なのだ。)

社会学ってなんだろう。興味を持ったキッカケは確か、「世の中ってシステムだなー。」と感覚的に思ったことだった。今思えば、ベルタランフィの一般システム理論も、当然ルーマンのシステム理論もウィナーもカウフマンも知らなかった頃(といっても、ここ半年ほど前)なので、発想/着想のセンスだけは良かったのかもしれない。(システム理論に触れた当初、目に見えないシステムについて過剰なまでに敏感になってしまい、神経衰弱的な状態が1週間ほど続いた。システムについて知るにつれて、原点に戻るという選択肢が取り辛くなるような気がする。もちろん、システム理論はそんなこと言ってないが。)

さて、理想的な社会のあり方を実現するために、(根本的なレベルで)どういう思想/考え方が存在するのだろうか。本書の補講にあたる「交響圏とルール圏」では、以下の二つの発想の様式があると述べられている。

・喜びと感動に満ちた生のあり方、関係のあり方を追及し、現実の内に実現することを目指す
・人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするもの

一方は積極的な関係性を求め、もう一方は関係を持つことから発生する望ましくない事を防ごうとする(積極的な関係性に対し、消極的な関係性といえる)。思い当たる節がないわけでもない。どちらも一長一短と言ってしまえばそれで終わりだが、私たちはこの両方の視点で物事を見なければいけない。偏ってしまえば、常に何かに対して異常なまでの憂いを抱くか、地に足が着いてない思想に染まってしまう。

日本という国で生活していくために、どれぐらいの関係性が必要だろう。日本を一個のシステムと捉え、閉ざされたシステム内でやっていくためには、何が必要なのだろう。時折、日本は鎖国するべきだ、という突拍子もない意見に出会って面食らうが、これだって以前は実際に鎖国していたわけだから、不可能ではないよなー、と思う。だけど、あらゆるものが分散し、国を超えて分業するというシステム(相互依存)になった現在、再び鎖国してやっていくのはかなり無理があるのではないか。いったん開放されて大きく広がっていったものが再び閉鎖された試しを私は知らない。(国外進出した企業が、やっぱり国内だけにしときます、というのは全く別の話である。システムは「変化」のみであり、「消失・収縮」はありえない。そのシステムを構成している企業が国内のみに活動を限定するのはシステムにとって変化の要因でしかない。ついでに、ここでエントロピー云々を持ち出す気もない。)

だったら、関係性によって得る抑圧や不幸を認識した上で、良い関係性を築く姿勢を取るのが良いのではないか。そういう月並みな考えにしかたどり着けない私には社会学のセンスはあまりないかも知れないが、もうこれは性格なのだ。そこに他国があれば興味を持ってしまうし、可能な限り良い関係にありたい。もし仮に実現が難しい場合も、敵対関係より、互いに干渉しない関係にありたい。「国」という意識から良い意味で解放されなければいけない。私たちは、日本人でもあり、かつ国際人でもあらなければならないのだ。

と思うがやはり、「国際的な開かれた感覚」に対して、「(国粋主義までいかないにしろ)日本を閉ざしておくような感覚」も必要なのである。そこが難しいところで、対になる概念がない概念は危険なのだ。こうした相反する概念に挟まれてついあれこれと悩んで神経衰弱な状態になってしまうが、それらから少し上にいって二つのものを同格の横並びにして眺められる視点を持たなければならない。これらの思想はオブジェなのだ。自分の思想に対しても同様に離れた(客観的な)視点で観察できなければならない。

話がずれた。なんだかんだで今日も私は朝食を決められないまま1時間ほどPCの前に座ってしまったのである。