Beauty & Chestnut

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哲学、思想に対して。

ドゥルーズガタリの著書が、あまりにも難解すぎて理解ができない。ポストモダン思想そのものが「知の欺瞞」でひどく指摘されていたが、それでもなお、私は理解したいと望む。彼ら、ドゥルーズ/ガタリの言葉は抽象的で、美しい。そんな愛すべき対象の不可解さにとまどいながら、私が理解するためには、何の知識が必要で、何の概念が足りないのだろうか、と、隅田川に沿って歩きながら考えた。

哲学や思想の本を読むと、自分が今まで持っていなかった概念に出会う。私は中途半端に単純な人間なので、「へ〜。そんな風に考える人がいるんだー。ふーん。」と放置することも、「なるほど、そうですか。じゃあ、そういう概念があることを覚えておきます。」という風に一歩引いて冷静に対処することもできない。実際に自分もその新しい概念を以って、世界を観察してしまう。あたりまえだけど、絶対的な、かつ正しい概念なんて、存在しない。すべては相対的で、平たく言えばどれも一長一短なのである。しかし、思想において雑食な私は関係なく取り込んでしまう。そして、袋小路に立たされるのである。

どれだけ歩いたかわからないが、ふと、一軒の建物が目に留まった。

住居なのか、それとも何かの工場なのか。モダニズムにもゴシックにも、アールヌーボーにもイスラムにも、私の知る限りのあらゆる建築様式に属していない、この不思議な建物。自由だな、と思った。何者にもなりきれていない一軒の建物。見る限り、相当の年季が入っていて、格調高さはないものの、そこでどういう歴史/物語があるのだろうか、と想像力を掻き立てる。しかも、よく見ると結構スタイリッシュである。

そう、大事なのは想像力なんだよ。ものを言わない絵画や建築、その他芸術品諸々、こちらが想像力で解釈をしてあげないといけない。たとえ誰も見向きもしない物でも、そこにアートを発見できるのは得ではないだろうか。そう自分に言い聞かせ、新しい概念を出会うたびに起こる精神的疲労も、想像力ゆえなんだろうな、とある種のあきらめの境地に至る。なら、仕方ない。徹底的に疲れてみよう。哲学や思想に対して、体当たりで向かい合おう。

ドゥルーズガタリの理解への道はまだまだ長く、疲れそうだ。