Beauty & Chestnut

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マダム・エドワルダ (ジョルジュ・バタイユ)

創造と破壊。生と死。オリジナルとコピー。
最初にAという概念ができ、それの対としてのBという概念ができる。これらはペアになり、あたかもお互いがお互いを支えあっているようである。思想史の「近代」終焉として「脱・構築」というムーブメントが打ち出され、その「AがあってBがある」という順序そのものの存在(考え方)が崩壊した。脱構築を一言で言い表したら、デリダという思想家の「音声があって文字があるのではなく、文字があって音声がある」で十分だと思う。私たちは頭の中の言葉(音声)を文字にしているのだと思っているが、文字があって、それに対応するように音声が生まれた、という事だ。なるほど、何か本を読む時に頭の中で音読している人にとって、この概念は受け入れやすいだろう。乏しい経済の知識を使って精一杯説明すれば「一次産業があって二次産業がある→いやいや、見方によっては一次産業も突き詰めれば既に二次産業である」という逆転的発想が脱・構築である(・・・はず。たぶん。)。

脱・構築に関してはこれぐらいにしておいて、この「対になっている言葉」について考えると、これが結構、対になっていない言葉を探すほうが難しい。生産と消費。睡眠と覚醒。盛と衰。美と醜。何かが存在するには、その反存在もまた不可欠なのだろう。そうすれば、栗野美智子としての、固有名詞としての「私」の反存在は何だろう。量子力学に面白い説があったけれど、とりあえずそれも置いといて、いわゆる普遍的な「自己と他者」ではなく、私の(普遍的でない)アイデンティティは何によって支えられているのか。私が私であることによって「私」があるのなら、きっとそれを裏付けるのは「私」の不在なのだと思う。(脱・構築の思想に従って考えれば、「存在する私」があって、「私の不在」を持ち出すのはおかしいけれど。)

デカルトの「我思う、故に我あり。」は「”我”思わないときは、”我”は無いのか。それはおかしい。」というアンチテーゼによって真理ではなくなった。しかし私は、「我思わないときに、我がないのは別におかしくないのでは?」と思う。「我」の存在を物理的肉体としての存在と限定してはいけない。

外に出て「寒いなぁ」と感じるのは、きっと自我から解放されていないからなのだろう。冬の寒さから本当に解放されるのは春になるのを待つ事ではなく、「寒い」と感じる意識から、つまりは「外界の温度を感じて反応する自分自身」から解放される事である。特に何も意識せずに過していると、季節の移り変わりによってしか、寒さから解放されないのだ。

私たちは集団で生活していくために、法律や常識や、なんかいろいろな制限を自分自身にかけることで「私」や「世間」または「世界」を保っている。制限が秩序を作り出す。そういった制限や、自我から解放された瞬間を、禅でいうところの「無我の境地」に達することであったり、発狂であったり、ランナーズハイのようなものであったり、ヘーゲルの絶対精神のような"主客の一致"と言うのだろう。(発狂というのは、究極の没個性と自我の開放の境地なのだと個人的に思っている。)

きっと、マダム・エドワルダの言う「ほらね、あたしは神様よ」というのは、そういうことなのかも知れない。