Beauty & Chestnut

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さくら

東京、16度。もうすっかり春である。
仕事帰りに花屋さんで桜を使ったエントランスブーケを購入。部屋でささやかな花見ができるようになった。小振りのものであるが、想像力で補って樹齢100年の桜の木である。

私の生まれ育った大阪の家は、公園に面しているので、毎年桜が家の窓からよく見えた。大阪を出る頃には幾分か木が減っていたものの、それでも春になれば特等席から眺めることが出来た。毎年シーズン時の連日連夜のドンちゃん騒ぎを窓から眺めながら、なんだか大人の世界って賑やかだなぁ、という印象を抱いた。

実際に社会に出てみて、いや、それよりもずっと前の、”家の中”という小さな世界から出たときから、世の中にはいろんな人がいるんだな、という事に気が付いた。同じ対応でも、人によって受け取り方が全く異なる。言葉一つの解釈も個人個人に委ねられる。万人に同じ言葉で同じ内容を伝えることは不可能だ。言葉には絶対的な普遍性なんて存在しない。話の通じない人がいても、仕方ないのである。いつ何時も同じ対応をして同じ結果を求めるような、いうなれば機械のような思考回路では世の中はストレスに満ち溢れた所のように感じるだろう。偶有性を楽しむことが大切である。ナビなんて捨ててしまえ。(ちなみに、ナビを滅多に使わずに、毎回、道に迷うのが私である。)

さて、東大出版から出ている死生学という一連のシリーズ本があって、その1巻を購入した。東大出版のシリーズは岩波講座に負けず劣らず優秀である。(ただ、岩波講座は気がつけば在庫切れしている事が多いので、全巻揃えたい私は、同じ題材を扱っている場合は東大出版の方を贔屓にしている。)

”死”というものは人生において一回きりのイベントで、不可避で、いつ遭遇するか分からない。だからこそきちんと向き合おう、といった趣旨のもと、安楽死尊厳死などの生命倫理アメリカやイギリスの死生観やそれにまつわる教育、そもそも死ぬとはどういうことかという哲学的な意見が第一巻で述べられている。

私個人に関して言えば、いつ死ぬかわからないものだ、なんて諦念を抱きながらも、「まぁ、いくらなんでも明日死ぬことはないだろう。」という根拠のない安心感も抱いている。その安心感がなければ、私は弱いので目標に向かって努力する事が出来なくなってしまう。おそらく私は明日も元気に一日を終えるだろう。だけど少しぐらい、死について考えてみる必要もある。

花屋で桜のブーケを見つけたのも、社会でいろんな人に出会うのも、誕生から死への時間は常に偶有性に満ち溢れている。