Beauty & Chestnut

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李香蘭 私の半生 (山口淑子、藤原作弥)

午前2時。夕方にアマゾンから届いた「李香蘭 私の半生」を読み終えたところだ。大体金曜と土曜の夜は本を読んでいるが、この静まった時間は、本の世界やその余韻に浸るのにちょうど良い。例えるなら、美術館や展覧会で作品と対峙した後にカフェでコーヒーを飲んでいるときの感覚と似ている。

さて、懐かしさには、2種類ある。1つは自分の過去を振り返ったときに感じる、個人的生活史的な懐かしさ、そしてもう1つは、初めて触れたものであるけれど過去のものとして認知している史学的な懐かしさ。初めて李香蘭の蘇州夜曲を聴いたときに感じた懐かしさは、後者のものだった。昭和の懐メロといっても、個人的生活史的には懐かしくないのである。お台場の昭和の町並みを模したフロアも、どちらかといえば物珍しさの対象だ。三丁目の夕日に関しては、まったくの他人事であるが、「たぶん、リアルな昭和じゃないだろうな。もうちょっと土着っぽさが欲しいなぁ。」と勝手に思っている。

李香蘭こと山口淑子は、大正九年に中国の北煙台に生まれた。生後まもなく撫順に引越し、ここで幼少期を過ごす。彼女の父親は日露戦争後、大陸にあこがれて中国に渡り、彼女の母も同じく日本出身で、朝鮮の京城で商売をしていたがうまくいかず、叔父を頼って中国にわたってきた。そこで二人は出会い、第一子として淑子が生まれる。父の中国語の特訓により、彼女は日本語と中国語の2つの言語をごく自然と話すようになる。

13歳の頃に、奉天に移る。当時の奉天満州第一の都会で、誰もがあこがれる場所であったらしい。ここから彼女の奉天での生活が始まるわけだが、この奉天時代の少し前に、運命的な出会いを果たす。偶然、遠足の時に乗った汽車で仲良くなったロシアの少女、リューバ。撫順に住んでいた頃から手紙のやり取りを続け、奉天で再会をする。肺の病気を患い、自宅で療養していた淑子を励まし、呼吸器系を鍛えるように医師から勧められたとき、声楽のレッスンの手引きをしたのもリューバである。彼女との出会いは運命的だった、と淑子は後に回想している。

厳しいレッスンにより、才能を開花した淑子は北京に単独で留学し、中国人として生活を始める。このあたりから、かの有名な川島芳子が登場してきたり、反日の機運が高まったり、激動の時代が始まる。李香蘭としてデビューを果たし、その後の活躍は比較的順風であったが、何分、中国と日本が対立していた時代である。彼女は故国と祖国の間に挟まれ、また、本名である山口淑子ではなく、出生を偽って李香蘭として生きる事を疑問に感じ始める。日本人であることを記者会見で告白しようと試みるが、その希望は叶えられなかった。記者クラブの幹事長から、「あなたは北京が生んだスター。中国人としてとおしてもらわなくては困るのです。」と退けられる。今でこそ、自分の出生やアイデンティティは自由に明かすことが出来るが、当時はそういったあたりまえの事でさえ、本人の希望通りには行かなかった。

長い間、中国と日本との間で板ばさみになった淑子は、引退を機に、ついに山口淑子にもどった。日本に帰国してから再び芸能活動をはじめたが、なかなかうまくは行かなかった。クラシックを歌っても、シリアスな役を演じても、常に「李香蘭」が彼女にオーバーラップしてしまう。同居していた家族の間でもトラブルがあったり、イサム・ノグチとの結婚生活も数年で終止符を打ったり、どこまでも波乱万丈であった。後に外交官である大鷹弘と結婚し、内助の功に勤める。女優を引退し、完全に「李香蘭」からも開放された。充実した生活だった、と記されている。時代に翻弄されながらも、強く生きた女性。それが山口淑子

今ひとたび蘇州夜曲をPCで再生させる。聞こえてくるメロディーが、一層味わい深いものに聞こえてくるのは気のせいだろうか。