Beauty & Chestnut

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建築家の果たす役割 (安藤忠雄 レンゾ・ピアノ)

日本が誇るグレートな建築家、”世界の”安藤忠雄さんの建築展が今、大阪で開催されている。ご本人による有難いお話(講演)が5月の末にあったようで、行き損ねた私はすっかり不機嫌であったが、よく調べてみると、安藤さん直々によるギャラリートークというものがあるらしい。

しかし、”世界の”安藤さん。まぁ、応募しても漏れるだろうな、と諦めてブラウザバックしようとしたら、当日に整理券を配布するという方法で参加者を募るらしい。これはもしかしたら、朝イチで待機していたら、チャンスが巡ってくるかもしれない。しかも、6月下旬の土日に二日連続でトークが開催されるようだ。セーの法則パレートの法則を応用し、独自に導き出した公式をもとに考えると、”一日二回トーク開催”×”土日連続”=”一回ぐらいは参加できるんじゃない?”という解が出てきたので、これは本当に行かなきゃだわ!髪切ろうかな。お洋服も新調しようかな。夏の新色コスメも要チェック。私、スイーツ(笑)

安藤忠雄さんという建築家に注目しはじめたキッカケは忘れてしまった。気が付けば安藤さんに惹かれた私は、何人かの友人にその事を話してみた。付き合いの長い友人のS氏に言わせて見れば、「類は友を呼ぶ」らしい。「そこで普通の建築家の名前が出てきたら、俺は逆におどろいたね。」とのこと。職場にいた、建築学部出身のNさんにも、「安藤さんって素敵ですよね!!」と話してみたら「いや、安藤氏はねぇ・・・。」と苦笑。安藤さんの偉大さは、およそ凡人には理解できない。

本書は、安藤さんとレンゾ・ピアノ氏の対談である。建築とはどのような存在であるかは、古くはウィトルーウィウス建築書の頃から議論され続けてきている。それでもこの類の話が尽きないのは、きっと建築家の数だけ(若干)違った答えがあるからなのだろう。ピアノ氏は「建築とは詩であり、表現です。建築とは物語を語る芸術作品であり、小説を書いたり映画を作ったりすることに似ています。」と言う。しかし、その芸術は人々のものでなければならない、とも言っている。

その他の芸術、たとえば文学や絵画、音楽や彫刻などは失敗しても、それほど社会に影響は無い。ところが建築は失敗したら、建った以上はそこに長く存在し続ける。そして、建築には人の命を守る役割も持っている分、責任は大きくなる。詩的な感性を保ちつつ、実利についても考えなければいけない。建築家の仕事というのは、実に複雑で多岐にわたり、細やかな配慮を欠かせない大変なものであろう。

建築とは、挑戦である。知性や感性、何事にもめげない強靭な精神力、柔軟な発想が必要とされる。クライアントの要望を聞くのも重要なことであるが、時にはそれに従わない勇気も重要だ。同じ建築物を欲しがるクライアントというのが存在するようだが、ピアノ氏はそれ実行したら建築家としての生命は終わりである、と断言する。常に挑戦し続けることに建築家の存在意義がある。

設計の世界にコンピュータが導入され、精密な図面を作成できるようになったが、あくまでもそれは情報を数量化、記号化できる世界でのみ成立する。建築には”創造性”が欠かせない。これは、コンピュータにはどうしようもない。人間の身体を通じた思考が無ければ、出来上がらないものなのだ。IT業界でも同じことが言える。コンピュータに出来ることはコンピュータにやらせ、人間はそれ以上のことをやる。

安藤さんを見ていると、社会をよりよくしようという意志が伝わってくる。大阪の財政を政府の力ではなく民間の力で立て直そうとしたり、地球環境への取り組みとして植林活動を行ったり、最近だとTシャツのデザインをして難民支援活動を援助したり、その活動は実に多岐にわたる。東京で事務所を構えて活躍する機会も資質も十分にあったはずなのに、それでも地元への愛情から、そこに残り、奮闘している。その姿はあたかも、アーサー王物語に出てくる円卓の騎士のように高貴で、理想を追求する姿はノヴァーリスを代表とするドイツ・ロマン主義文学のように甘美で、その個性の強さは、真冬の澄み切った夜空に輝く一等星のようである。(・・・と、文学的に表現してみる。)

コンクリートという素材はいろんな形を作り出すことが出来る上、一度固まるとその形はめったな事が無い限り、くずれない。柔軟さと堅牢さの両方を併せ持ったコンクリートほど、安藤さんを象徴するのにピッタリなものはないだろう。いつかマイホームを購入するとき、絶対に安藤さんに依頼したい。頑張って働こうっと。