Beauty & Chestnut

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週末芸術家論

書道用品を買いに銀座へ行った帰り、少し足を伸ばして六本木にあるサントリー美術館へ寄った。現在、「美しきアジアの玉手箱」という題の展覧会が開催されていて、日本を中心に、韓国、中国の絵画や書、陶磁器が展示されている。

入り口すぐそばに、縄文時代土偶が展示されていて、これが何千年も前につくられたものなのか、と驚いた。一部破損しているものの、「10年ぐらい前に作られたものだ」と紹介されれば疑わずに信じてしまいそうなほど、しっかりとした状態である。実に細部まで手が込んでいて、意匠に富んでいる。異様に大きい目に、短い手足。その姿は意図したデフォルメなのか、それともありのままの人間の姿を作ろうとした、つまりは当時の人間観のようなものなのか。用途も謎で、呪術的な用途に使われたようにも見えるし、豊穣を祈願して造られているようにも見える。それ以上に、何千年もの時空を越えて、今出会えたことに感謝。その土偶が作られた時代について考えるよって、あたかも時代を超えて、作者(縄文人)と対話をしているようである。

さて、科学が発達した現代に生きる私に、この土偶と同じもの、またはもっとすごいものが作れるか、と問われれば返答に困ってしまう。もの作りとは不思議である。私たちは天動説が正しいことを知っているし、ゼロの概念もあるし、万有引力の法則も知っている。昔の人に比べて、ずっと沢山の知識を有しているにも関わらず、土偶すら作れないというのは、一体どういうことだろうか。土偶に限らず、何千年、何百年も前に作られた「傑作」とされるものに及ぶような作品を、科学が発達した、という理由で誰でも軽々と作ることはできない。もちろん、知識としての技術は継承されているが、知っている事と、実際に意匠に富んだものを作れる事は、別の話である。

魯山人が言うには、良い作品を作るためには、まずは人間ができていなければならないそうだ。作品というのは人によって作られるものである以上、作る人間の質が求められるのは当然のことだろう。幸か不幸かわからないが、「人間性」というのは後天的に身に付ける、または発展させるものである。親が偉人であったから、生まれた子供は生まれたときからその偉大な精神を持っているのかといえば、そうではない。だから教育というのは、とても重要になってくる。

ところで、私を含め、その場に居た多くの鑑賞者は、芸術家ではないし評論家でもない(と思う)。だから「これ、いいね。」といった単純な感想を洩らすのも、ごくありふれた光景だし、まれに何かを訴えてくるような作品に出会ったときの第一声も、「おぉ」といったような、簡素極まりないものであるのも普通のことである。それは素直な反応だし、良いものを見て感動する感受性は大事にしなければならないが、「なんとも言えない気持ち」を何とか言おうと思う二次的な発想も大事にしたい。何がどう良いのか。なぜ自分はその対象から、強い印象を受けたのか。おしゃれなものなんて、巷にあふれているのに、それらとは違うと思うのはなぜか。もしその作品が美術館ではなく百均に置かれていたら、同じように感動しただろうか。

一歩踏み込んだ鑑賞眼を持つために、自分も創作に携わってみるのも一つの手段だと思う。ものの構造がわかれば、何がすごいのか、おのずとわかってくる。絵画であれば、実際に書いてみればいいし、建築であれば、構造力学をちょっと学んでおけば、感想を意匠論だけに限らずに語ることができる。建築史を学んでおけば、他の様式と比較することができる。そういうわけで、私も書道を独学で始めたわけだが、上達度は別として、何が良いのか分からなかった書道の作品が、ぐっと身近なものになった。目下の目標は脱・般若心経のなぞり書きである。