Beauty & Chestnut

栗野美智子オフィシャルウェブサイト(笑)へようこそ。ツイッターもやってます。@Michiko_Kurino

伝統の創造力 (辻井 喬)

かつて、経済学者ハイエクは「伝統とは多くの場合、既得権の別名にすぎない」と喝破した。同じように日本にも、「伝統」が捻じ曲げられて、本来の姿から遠ざかっている事を見抜いた人物がいる。辻井喬氏だ。日本の伝統はどのように変わったのか。その原因は何だろうか。そもそも、伝統とは何か。

政治、経済、芸能、料理、建築、文学など、ありとあらゆる分野に「それは日本の伝統だ。だから保護しなければいけない。」と声高に叫ぶ伝統尊重論者なるものがいる。著者はこういった人達の多くに見られる弱点とし、以下の3つを指摘した。自分だけが好む歴史のある時点に貼り付けられた道徳美意識にすぎないこと、まだ実態を伴っているかいないかに無関心な形式の尊重にすぎないこと、不満な現状を裁断するものとしての超歴史的な価値観にすぎないこと。要するに、歴史意識の欠如である。こういったものは気鋭の若者にも見られ、歴史意識の欠如の弊害として、新しい才能や可能性を持った人が現れたときに批判し、伝統が自らの権威の小道具と化してしまうのだ。伝統とは、古くから伝わるものをそのまま保存することではない。歴史的存在としての大胆な自己改革を行う運動体であり、その運動によって新しい文化芸術を形成する源のことなのである。

このような誤解が生まれたのは何故だろうか。著者は二つの原因を挙げる。一つ目は明治維新を経て、伝統的な美意識を遅れた野蛮なものとしたこと。二つ目は敗戦直後に人間が人間らしく生きることを否定してしまったこと。明治維新後、日本には沢山の思想が海外から輸入されるようになった。その結果、日本は遅れているから欧米を手本として学ぶべきという主張と、偏狭な国粋主義的思想によって歪めた伝統の復活を求める主張がぶつかりあい、日本には血肉化した思想が不在の時期が始まった。文学の世界でも同じような衝突があった。森鴎外を中心とする漢詩派と、井上哲次郎を中心とする新体詩派の対立である。前者はこれまでの伝統であった漢詩の文体で西洋の詩の翻訳を試み、後者は新時代に相応しい、人々の読みやすい口語を使うことを是とした。小説にも変化が見られた。横光利一は、ドストエフスキースタンダールには思想性とそれに適当したリアリティがあるが、わが国の純文学は狭まっている傾向にあり、作者が己一人物事を考えていると思って生活している小説と堕した、と「純粋小説論」で述べた。その背景には文学と現実が遊離しているという意識と、思想不在によって時代精神を反映できなくなったことを挙げる。このような傾向は、戦後ますます加速することとなった。

もう一つの指摘である、敗戦直後に人間らしく生きることの否定とはどのようなことを指すのだろうか。それを理解するためには、敗戦前の軍事国家の権力が、何を歪め、何を換骨奪胎したのかを見極めなければいけない。15年戦争期に徹底して行われた思想弾圧、天皇崇拝が人々を思考低下させてきた、と著者は主張する。この主張が正しいのかは私には分からないし、その時代を生きていた人の間でも受け止め方は違うと思う。私は自分が生きていなかった時代についての他人の言及は一切信用していないが、とりあえずそれは置いておこう。思考低下の害は高度成長・技術革新の時期に露呈してきた。例えば、良い映画を創るシステムと上映するシステムが結びつかず、人々は予算をたくさんかけた外国の映画を求め、必ずしも良いものが正当に評価されなくなった。その結果、良いものを見つけるのが困難な時代となった。次に、物質的に豊かな社会が出来たことで社会的昂揚感や上昇機運が消滅した。村落共同体が職場共同体に変わり、職場共同体が企業共同体となった。日本的共同体は過去のものとなりつつあり、家族でさえ仮の枠組みとなった。こういった問題に対峙するとき、必ず民主主義教育が問題であるような意見が出てくる。しかし、社会崩壊現象は工業国に共通して見られる現象である。著者は教育や経済の成長が芸術や文化を衰退させたのではなく、本来は人間のために行われるはずであった開発が、いつの間にか国家の繁栄・経済の発展のために行われるようになったからだ、と言う。

話が少し飛躍してしまうが、あえて回り道をすることで私の感想を述べることが可能だと思うので言うことにするが、開発が何のために行われるべきかという問題は、ひいては国家のありかたについて問われることになる。日本は良くも悪くも全体主義であり、社会主義であり、共産主義の国家である。お世辞でも、個人が思考して行動に反映する積極的民主主義国家とはいえない。効率の悪いシステムや習慣や残業は「伝統」や「常識」という名でしぶとく生き残り、互いに監視しあうことで秩序を維持している。会社のために私生活を犠牲にして長時間労働する人も多いし、自殺率だって先進国の中で極めて高い数値を誇っている。将来は過労死か自殺で死にたい、と思って生きている人間なんていない。誰もが有意義な人生や楽しい人生を送りたいと思っているはずだ。個人が個人として生きることは方法論的には可能であるが、それを許さない空気が漂っている。逆説的になってしまうが、こういった風潮の世の中では「人間のための開発」より「国家や経済の発展のための開発」が執られたからこそ、ここまで発達できたのではないだろうか。経済が豊かになったことで、個人の自由が拡大した。つまり、これまでは国家のために国民が頑張ってきたが、これからは国家が個人のために存在する準備が整ったのだ。自由に生きるための方法が出来上がったら、後は実現するだけである。個人が個人の権利を見直し、隷属しない精神を持つことによって思想の回復が可能となる。アダム・スミスから始まり、フリードマンハイエクまで、精神の自立による自己責任や、個人の自由を尊重する思想を血肉化することで、再び伝統が息を吹き返すのではないだろうか。