Beauty & Chestnut

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梅雨のあいま、もしくは明け

今日は数日振りに青空を見た気がする。帰宅時にバスの中から外の景色を見ていたら、ふと紫陽花の花が目に留まった。なんてことはないが、静かだけど鮮明な感動が心に満ち、最寄りのバス停で降りて花屋に寄った。何か切花でも買って帰って、玄関に飾ろうと思い、あれこれと見ていたが、先ほどの感動はどこかに行ってしまったのか、私は花を買うのを止めてしまった。小さな花瓶に活けられた花からは、ただ枯れるのを待っているだけのような、どこか弱弱しいものが感じられる。部屋の中に花瓶を置くのに適した場所がないので消去法的に玄関になるのだが、玄関は1日に1、2分滞在するぐらいの場所だ。毎回枯れた花を捨てる時に、もうちょっと鑑賞すればよかったかなぁと思い、花に対して少し罪悪感が芽生える。買うのをやめたのは、おそらく、そういった過去の経験を思い出したのだろう。そしてまた、花を見るため、という散歩の理由が出来たことに密かな喜びを覚えのかも知れない。

「理由」というのは、重要なものだと最近思う。全て「なんとなく」で行動に出ていた頃は、ずいぶんといろんな人を振り回していたに違いない。理由とは言い換えれば建前でもあるが、そういった建前を用意するぐらいの余裕が出来たのだろうか。それとも、言い逃れのための準備なのだろうか。私は持って生まれた気まぐれな性分を楽観的にも悲観的にも捉えている。自分のペースでしか動かないから、文脈にもルールにも縛られない。しかしその反面、「不安定さ」や、これで良いのだろうかという「内省」が付きまとう。理由を作ることで自分に何らかの文脈を課しているとすれば、それはそれで新たな試みとして、結構なことかもしれない。但し、可能な限り、それは自分自身に対して正直で積極的な理由であるのが望ましい。

人が何かをやろうとする時、そこには積極的な理由と消極的な理由がある。前者が前向きでポジティブなものであるのに対し、後者は回避的である。自分の生活を振り返って考えてみたら、大学に行きたいと思ったものの、勉強の予定が大いに遅れている。理科2科目は未だにほぼ未着手で、国数英の主要科目だけ力を注げば何とかなるのではないだろうか、とまで考え始めた。それは不可能ではないにしろ、勉強したいという理由で受験を志したわりには、良くない傾向である。もちろん、それだけではない。理由は沢山あってもいい。学歴が欲しいとか、もう一度キャンパスライフを送りたいとか、面白い知人が欲しいとか、少ないよりも多いほうが保険にもなる。ただ、どれが強く作用するかによって、随分と変わってくるのも事実である。4月当初のやる気はどこに行ったのか、いまいち勉強に集中できない日が続いていて、いわば拡張された五月病を患っていた折、懐かしい人からメールを貰った。時々、中高時代の友人から応援のメールを貰うことがあるが、実は貰って一番嬉しかったメールが、この人からだ。とりあえず、合格して牛丼でもご馳走してもらおうか、というのが、目下の主要な積極的理由である。悪くない。