Beauty & Chestnut

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絵画と建築

湯河原に行ったときにポーラ美術館に立ち寄った。少し山を登った所に立地していて、コンクリートという無機質な素材で出来ているにも関わらず、ガラスを上手く使って透明感を出している事と、やや丸みを帯びた設計、そして上手く周りの風景を借景していることから、静かにそこに溶け込みながら佇んでいるような、美しい建築である。駐車場からエントランスまで一直線で行くことが出来ず、美術館脇を迂回してさらにブリッジ、どちらかといえば渡り廊下のような印象を受ける、を渡らねばならず、入場まで少し手間のかかるつくりになっている。

「無駄の多い設計ですね。」一緒にいた人がぼやいた。確かに、無駄ではある。
「この無駄さから美しさを感じ取るのが建築です。」その場をただ取り繕うような、本質を捉え切れていない説明をしてしまった事に、私は自分の建築に対する知識に一抹の不安を感じてしまったが、全くの嘘ではないし、建築にはそういった側面も含まれているのも事実である。
「雨露がしのげればいいと思いますよ。」
「それでしたら、一度、耐水加工をしたダンボールのお家にお住みになっては如何でしょうか?」

後になって思ったが、この『雨露をしのぐ』こそ、建築の本来の存在意義を的確に捉えている。建築についてあまり知らないはずなのに、そこを端的に見抜いた彼は、実はセンスがあるのではないか、と少し焦りのようなものを感じた。

建築という存在は、よほど意識しないと存在があたりまえすぎて、ありがたみが無くなってしまうものなのかも知れない。大自然が作った、という観点から、洞窟を建築物と定義すると、元来絵画と建築は一体だった。それは壁画と呼ばれ、古くはラスコーやアルタミラなどで確認されている。いつからか、絵画は紙に描かれる様になり、建築とは切り離されて存在するようになった。それでも今日、絵画は美術館を始めとする建築の中で見ることに変わりはなく、空間はいかに展示物を美しく見せるか、に智恵を絞ってきた。その余力として、建築そのものの美しさが、設計者の心情を媒介として表出されている。

また、建築は、書と似ている。例えば、「建築」という字は1種類しかないが、それをどのように美的に処理して表現するかは作者の手にゆだねられる。墨や水、紙にこだわり、気候、主に湿度を意識し、字と字の間に何か意味を持たせ、線の細さ太さを自在に調整し、総合芸術として仕上げる。同様に、建築が持つ本来の役割は一つであるが、書の製作と同じように美的処理が施され、作り上げられる。書との決定的な違いは、社会的責任が大きいところだろうか。書は個人で作られているような印象を受けるが、実は分業である。いつかそれについて記事を書きたいと思う。

美術館では丁度、日本画展(第二期)が開かれていて、常設の西洋画展となんら遜色のない充実した内容となっていた。横山大観東山魁夷、杉山寧らを始めとする大御所が展示されていて、おそらく彼らの作品をこれほど同時に大量に見る事は不可能ではないだろうか、と思わせる。西洋画にはあまり詳しくないので記憶が曖昧になってしまうが、印象派の作品を多く所有していた。美術の教科書に太字で名前が紹介されている画家が多かった気がする。展示作品を見終わった後、ミュージアムショップで平山郁夫のポスターを購入した。「流沙明月」という作品名で、展示されていた名画群の中でとても印象に残った一点だ。彼の作品からは仏教の影響が読み取れるが、同時に異国情緒も漂ってくるせいか、日本のそれとは一味も二味も違う。日本画でありながら、日本画でない。禅問答のようである。「流沙明月」は図録に収録されているかと思っていたが、一期と二期の合同の図録だったためか、省略されていたのでそちらの方は購入せず。

「なかなか見応えがありましたね。」十二分に満足した私はその旨を伝えたら、
「この美術館のオーナーは成金趣味ですね。」と予想外の答えが返ってきて、思わず笑ってしまった。建築様式で例えたら、バロックだろうか。そんな事を考えながら、美術館を後にした。