Beauty & Chestnut

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マイトレイ (ミルチャ・エリアーデ)

久しぶりに小説が読みたくなって、図書館へ足を運んだ。海外文学のコーナーで面白そうな本を適当にピックアップして、パラパラとページをめくってみる。文体が気に入れば、本日のお持ち帰り。そうでなければ、再び書棚へ。こういう作業を1時間ぐらい続け、私は「フライデーあるいは野生の生活(トゥルニエ)」「砂の都(ブリヨン)」「夜が昼に語ること(ビアンシォッティ)」そして、「マイトレイ(エリアーデ)」の4冊を借りて帰った。「フライデーあるいは野生の生活」はあの有名なロビンソン・クルーソーに出てくるフライデーという人物の視点で描かれた、いわばアナザーサイドストーリーである。文学にはこうした、オリジナルをもとに別の作家が別の視点で物語を書く事が往々にある。パロディ版や、パロディのパロディも存在する。和歌でいうところの、本歌取りであろうか。

本書マイトレイはミルチャ・エリアーデという碩学宗教学者の若き日の自伝的小説である。マイトレイという人物は存在するし、エリアーデがインドへ渡ったのも事実である。小説と事実の相違点は、彼とマイトレイの父が技師である設定ぐらいであろうか。マイトレイの父は有名な哲学者で、エリアーデは哲学徒としてインドに渡って彼に師事していたのである。さて、話を小説へ戻そう。ルーマニア人の若き技師アランがインドへ渡り、現地のインド人の上司センに気に入られ、彼の家に住む事になった。センはバラモンに属する上流階級で、召使が何人もいて、彼の家には彼の妻や、娘のマイトレイ、妹のチャブーがいた。一目見てマイトレイに惚れた彼だったが、インドの文化や風習の違いから、なかなか意思疎通が上手く行かなかった。彼女の行動の意味が分からず、また、彼女の感情の豊かさ、聡明さ、気まぐれに翻弄され、最初は自らの恋愛感情に否定的だった彼であるが、いつしか完全にマイトレイの魅力に屈するようになる。いやぁ、誠に爽快である。抗いつつも最終的には女性の魅力に屈する男性、というシチュエーションに遭遇する度に、勝利のような感情が私の中に沸いてくる。もちろん、その勝利の感情は擬似的なものであるが。

マイトレイはマイトレイでアランの事が気になっていたものの、恋愛経験が無いからどうしたらいいか分からない。そこで、自宅の蔵書の目録を作るという名目で、彼と二人きりになるチャンスを作る。しかし彼女はタゴールというインド屈指の詩人を崇拝していて、彼の家に泊まったことがある、と告白する。このタゴールという人物、Wikipediaの写真で見てみると、かなりの男前である。彼女とタゴールは随分年齢が離れていて、マイトレイには彼を敬愛する感情はあるものの、異性として愛しているわけではないが、会った事の無いタゴールへの嫉妬の感情にアランは悩ませられた。良い。嫉妬する男とはなんと甘美な存在であろうか。諸君、私は翻弄される男が好きだ。(←某少佐風)

文化の違い、言葉の違い、恋愛経験の乏しさからくるすれ違いなど、幾多の試練を乗り越えた彼らであったが、最後は身分の違いによって引き裂かれる。息子の居ないセンはアランを跡取りのための養子として迎え入れたのであったが、目的に反して彼は娘と恋愛関係になってしまう。当時は結婚するまで純潔を保つことが掟であり、また、異教徒との結婚は一族の社会的地位が失われる事と等しかった時代である。センは激怒し、アランを追放する。こうして、わずか半年ほどで互いに我を忘れるような熱い恋愛劇は、幕を閉じた・・・ように思えたが、これには興味深い後日談がある。

インドを離れたアラン(エリアーデ)は兵役を終えた後、本書「マイトレイ」の執筆に取り掛かる。これがベストセラーとなり、彼は一躍時の人となるが、彼が選んだのは小説家への道ではなく、宗教学者への道だ。宗教学の研究の傍ら、時折執筆活動も行ったが、「マイトレイ」以外の著作は幻想小説として位置づけられており、本書は特異的なものとなった。エリアーデは大学の教授として活躍し、残されたマイトレイは別の男性と再婚し、幸せな生活を送っていたが、ある日マイトレイの元に訪れた人物が「あなたの昔の恋人が、あなたの事を小説にしましたよ」と告げる。エリアーデがインドを去った理由を知り、(というのも彼女はなぜ彼がインドを去ったのか真相を知らされていなかった)彼の元へ四十数年ぶりに会いに行った。その時のエリアーデの態度は、始終他人行儀であったという。その後、マイトレイは「愛は死なず」という彼女の視点からの自伝的小説を書いた。小説に対する、小説の応答である。残念ながら、こちらは翻訳されていない。エリアーデとマイトレイを結ぶのは因縁なのか宿縁なのかよくわからないが、事実は小説よりも奇なり。