Beauty & Chestnut

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素数の音楽 (マーカス・デュ・ソートイ)

明日は選挙なので、少し前に届いてどこかに置いたはずの入場券のようなものを探していたら、ずっと前に京都からの帰りの新幹線で読もうと思って恵文社で買った「素数の音楽」が本棚の奥の方から出てきた。私は机の上に物が置けなくなると本棚のスペースに詰め込む癖があるので、時に本が物に埋もれてしまって本来の機能を果たしていない事が多々ある。半田やラジオキットや読み終えた新聞もどんどん挟まっていくので、本棚が履歴の地層のようになっている。肝心の探し物は結局見つからず、仕方ないので再発行してもらうことにして、久しぶりに見つけた「素数の音楽」をパラパラと読んでみた。おそらく当時は聞きなれない、見慣れない用語が沢山出てきて難しいと感じたのだろう。京都から東京まで2時間以上あるはずなのに、わずか数十ページのところに栞が挟まっていた。

素数とは1とその数自身でしか割ることの出来ない1よりも大きな正の整数、いわば数の原子である。数が大きくなれば何かの数で割ることができそうだし、素数は100を越えた辺りから減っていくんじゃないか、というのは大きな誤解で、実際に膨大な素数が存在する。この素数の現れ方はどうやら規則性がありそうで、予測はできるものの予測の域に留まっているのが現状だ。素数の並び方を解明できたら大自然を支配する法則を理解できる、とさえ言われている。単なる気まぐれなレディなのか、それとも万物を支配する法則なのか。素数はこれまでに数多くの数学者を魅了してきた。素数表を初めて作ったのは古代ギリシャのエラトステネスだと言われるが、彼よりもずっと後の数学者オイラーから話したいと思う。

レオンハルト・オイラーは十八世紀を代表する偉大な学者で、主に数学と物理学を研究していた。その頃は宮廷の庇護者たちの活躍の時代だった。というのも、自国の軍事力や科学力を高めるために科学や数学が重要視されていて、インテリを囲うことが名声の印だと考えられていたからだ。学者にパトロンが付くとは何とも羨ましい時代である。ある日、オイラーはエカテリーナ女帝に招聘された。彼女が抱えていた数学嫌いの無神論ディドロの扱いに困っていたからである。宮廷に使える人間に無心論者の存在は危険である。そこで、神が存在することを証明することを期待してオイラーを呼んだ。「お客人、(a+b^n)/n=xであるからして、神は存在するのです。さぁ、あなたのお考えはいかに」とオイラーに迫られたディドロはさっさと退却したそうな。エカテリーナの寵愛を得たオイラーだったが、彼の素数研究には困難が付きまとった。素数だけを使った式を作り、もし計算が出来たならどんな答えが出るのだろうか、と思いを馳せたが、そんな彼を見て周囲の人は冷ややかだったという。ある数学の問題を解く課程で、彼は素数だけを使った式の解を得た。素数を使った一見無秩序な左辺に対し、右辺は宇宙で最も美しい形になり、この発見により素数は無秩序なものだと思われなくなった。素数解明のキーとなるゼータ関数の萌芽が見られた。

オイラーの後はガウスが引き継いだ。ガウスは少年時代に素数に興味を持ち、自然対数表と素数階段の繋がりを見つけようと奮闘した。一見無関係な2つの対象に共通点を見つけようとするなんて、もし彼が現代に転生したら、数学者になれたのはもちろんの事、松岡正剛さんの編集工学の分野でも活躍したに違いない。さて、素数研究における彼の手法は興味深い。次の素数がどこにあるのか、ではなく、1からNまでの間に素数は何個あるか、と一歩退いて考えたのだ。私は音楽にはあまり詳しくないが、著者ソートイの評がなかなか洒落ているな、と思った。

ガウスは、素数を眺める人々の心理に大きな変化をもたらした。それまでの数学者たちは、いわば素数の奏でる音のひとつひとつに耳を傾けているだけで、音楽全体の構成は理解できなかった。ところがガウスは、どんどん数を数え上げていったときに、そこまでの間に素数がいくつあるかという問いに集中することで、主旋律を聞き取る新たな方法を見つけたのだ。

また、ガウスは「対数表がどれほど詩的であるか、誰も知らないのだ」と言っている。ソートイもガウスも詩的・芸術的な感性を持ち合わせている。本書第三章の冒頭で「トリスタンとイゾルデ」を引用しているのも、何ともいえないほど卓越したセンスと教養を感じる。ふと、読みかけのポアンカレ著「科学者と詩人」を思い出した。天は二物も三物も与えているに違いない。羨ましい限りである。

さて、ようやくリーマンの登場である。リーマンはオイラーガウスを始めとする、これまでの素数研究に対する違った見解を持つに至る。三次元の物体が二次元の影で見ることができるように、二次元の影から三次元の姿を理解する方法を数学の世界で試みたのである。ゼータ関数とよばれる関数の一種のグラフを作り、ゼロ点とよばれるグラフの窪んだ点を4つほど調べたら一直線に並んでいることが分かり、「ゼータ関数の非自明なゼロ点は全て一直線上にあるはずだ」というリーマン予想を残した。しかし、リーマン自身もこの予測を証明できなかった。以来、多くの数学者の情熱がこの予測に注がれてきた。後にハーディとリトルウッドのコンビが直線状以外のゼロ点が存在するかも知れない、と疑念を抱き研究するも証明するに至らず「リーマン予想は間違っている」という暴言まで言わしめたそうな。なんという、愛憎喜悲劇。いやはや、愛の反対語は無関心とはよく言ったものだ。憎悪と愛はペアなのである。それもかなり親密な。

素数解明への道はまだまだ続く。最大の犠牲者と言われるナッシュは「リーマン予想についての型破りの見方」という講演を開くが、突然異変が起こった。統合失調症の前兆がこの時期に始まり、以後長らく闘病生活が続いた。ナッシュはリーマン予想が成立する世界を仮定し、そこから現実世界への道を見つけるという手法を取っていたが、論理的に考えることと非論理的に考えることで精神に異常をきたしたのだとされている。ドイツ軍の通信に用いられた暗号を解読したことで有名なアラン・チューリングリーマン予想が間違いであることを証明しようと試みるが、かえって予想の正しさを確認してしまうことになった。また、ある日数学者のモンゴメリは量子物理学者ダイソンと閑談している時、ダイソンの研究している原子核のエネルギーの間隔と、ゼロ点の間隔を求める数式が非常に似ていることに気付く。素数と原子には何らかの関係がある。やはり、素数は万物を支配する法則であるのだ。

現在、素数の研究はビジネスの世界で活かされるようになってきた。暗号化の技術として、インターネット上での取引に用いられている。私がネットでカードを使って物を買えば、見えないところで情報が素数と関係しているのだ。象牙の塔に篭っていた素数がこういった分野で用いられるのは残念な事なのか、それとも身近になったので喜ばしい事なのか、門外漢の私にはわからないが、興味を持つキッカケが増えるのは望ましい事ではある、とは思う。今後の数学者とその卵に期待しつつ、そろそろ擱筆しよう。

余談:
オイラー、リーマン、ラマヌジャン」という本を読んでいたら、素数が無限個あることの証明が載っていた。なるほど、言われてみれば、と思ったので、抜粋しておく。

素数が有限個p1, …, pnしかないとする。そのときp1×…×pn+1の素因数分解を考えると、素数p1, …, pnのどれかで割り切れないとおかしいが、どれで割っても1余ってしまう。これは矛盾である。したがって、素数は無限個ある。(証明終)

後、NHKスペシャル「魔性の難問 〜リーマン予想・天才たちの闘い〜」も参考にしました。