Beauty & Chestnut

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コルテオ (シルク・ドゥ・ソレイユ)

夢の中に「自分」がいて、そこから少し離れたところでその「自分」を見ている、といった体験をしたことがあるだろうか。夢を見るとき大抵そんな感じなので、特に気を留めておらず、誰でもそうなのかと思っていた。何かの本で読んだら、普通は夢の中でも「自分」は「自分の身体」の中に収まっているそうだ。夢の中でもきっちり「身体」に収まっているのは正に「型にはまった」という言葉が適切なぐらい、常識やら物理的法則から解放されていない不自由な思考、しかし正常な状態なのだろう。

先日、シルク・ドゥ・ソレイユコルテオを見てきた。

周知のとおり、シルク・ドゥ・ソレイユのシリーズは人体の限界に挑むような美しいパフォーマンスで観客を魅了し続けている。なので、やはりアーティストはアーティストであってアーティスト以外ではない、という感想に止めておいて、その美しいパフォーマンスの背後を流れるシナリオについて言及したいと思う。

主人公はある日自分の葬式の夢を見た。夢の中で「これは夢である」と知っていたので(明晰夢)、起き上がって葬式に来てくれた友人と会話をすることもできる。一見、主人公はお葬式の主であるお爺さんなのかと思いきや、その少し離れたところにいる白いクラウンもまた、同一人物なのである。ストーリーはお葬式で過去を回想するように進行し、ところどころにお爺さんと白いクラウンが出てくる。この夢を見ている主体はお爺さんなのかクラウンなのか、物理的状態(夢が覚めたときの年齢)はわからない。しかし、夢の中ではお爺さんで、それを若かりし自分の姿を以って、離れたところで見ている。つまり、「自分」を「自分」が見ているのである。

おそらく、RPGをやったことのある人なら、この感覚は分かりやすいかも知れない。自分の分身である主人公を、画面を介してコントローラーを使い、操作する。画面上のキャラクターは(仮想的ではあるが)自分の身体の延長であるとも言える。

あきらかにこれは錯覚であるが、自己転移するような感覚が芸術を理解する上で役に立つ場合がある。いわゆる芸術品はそれだけではただのオブジェであって、見る人とのコミュニケーションがあって芸術品として成り立つ。芸術品自体が何かを訴えるわけではなく、見る人がそこに自己転移し、物語を展開する。たとえば、海を見て「自然は雄大だなぁ」と感動する人がいるとする。これは別に海が「私って雄大でしょ。」と訴えかけているわけではなく、見る側が何らかの物語を展開した結果、「自然は雄大だ」という風に自らを導いた結果に過ぎない。感動する、という行為は対象と自分をいかに結びつけるか、が大事だと言える。歴史に残る芸術作品というのは、多くの人がコミュニケーションをとりやすく、技法的にすぐれた作品のことではないだろうか。

さて、コルテオ。これから見る予定の人がいれば、「それはあなたの期待に答えてくれますよ」とコメントし、見ようかなと悩んでいる人がいれば「可能であれば見てみればどうでしょうか」と、コルテオって何?な人には「調べてみてください」と言っておこう。

会場入り口付近にあったダイハツの車。こういう車がお店で買えるのであれば、免許取得に励んでみるのも悪くないかもしれない。


※・・・とか言っておいて、実は白いクラウンは主人公とはまったく関係のない他人でした。すみません。