Beauty & Chestnut

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つみきのいえ (加藤久仁生 )

アカデミー賞を受賞した、12分ちょっとの短編アニメーション。会社で仲の良い人が「面白いですよ」と言って貸してくれた。音声が一切なく、映像と音楽のみの作品である。(ちなみに、市販されているDVDはナレーション付で再生することも可能。)

【あらすじ】------------------------------------------------------
海面がどんどん上昇する世界で、人々は家を上へ上へと建て増し続けて暮らしていた。家の上に家が積み重ねられていく外観は、つみきそのものである。そんな世界に、おじいさんが一人暮らしをしていた。ある日、水面がさらに上昇し、家を建て増すことに。完成し、荷物の移動を行っていたとき、おじいさんはお気に入りのパイプを落としてしまう。沈んだパイプを拾いに行くために、海にもぐることに。今はもう住めない、積み重ねられた家に再び訪れることで、おじいさんは過去の思い出に触れる。

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おじいさんは昔住んでいた家へ、つまり、より深いところへもぐることによって、過去を再発見している。建築が時間を保存している、といった風に、隈研吾さん的な手法により本作品を解釈をしても楽しいと思う。この作品には、「○○は××でなければならない!」といった主張は無い。ストーリーのシンプルさがかえって鑑賞者の内面に問いかけてくる。自分の人生をふりかえるのもよし、水面の上昇から温暖化を連想して地球環境について意見を述べるもよし、家族愛について考えるもよし、記憶とはなんだろうかと思索にふけるもよし。メッセージ性のない作品だからこそ、可能なのだと思う。しかし、その背後には、深い何かを感じる。

DIY!】本当のメタボリズム建築【自宅の建て増し】
黒川紀章菊竹清訓が中心となって開始した建築運動「メタボリズム」。高度経済成長によってもたらされる人口増加と都市の発達に対応できるように、建築に新陳代謝という概念を持ち込んだ。この、あわただしく変化する環境に、フレキシブルに対応しようとする思想自体は素晴らしいものであるが、中銀の残念なアレ(中銀カプセルタワー)については、私は否定的なスタンスである。工場で製造されるハコ(部屋)によって作られる人工的な生活に、新陳代謝という言葉がもつ「生命」のような意味は完全に失われている。風呂やトイレ、ベッドやテレビの位置まで統一され、むしろ新陳代謝より共産主義的な思想を建築に持ち込んだように思える。特に町に溶け込む様子も無く、あの異様な雰囲気は完全なオブジェクト建築である。なんていうか、今はもう過去である、フォーディズム資本主義時代の遺物にしか思えない。一体、誰のための建築だったのだろう。(とかいいつつも、私はこの建築が結構好きである。)
さて、思いっきり話がずれてしまったが、本作で注目したいのは、おじいさん自身が、建て増しを行っているシーンである。業者ではない。本編を見ていれば分かるが、この家は上に上がるごとに小さくなっていく傾向がある。(1階から2階は拡張されているが、それ以降は基本的に小さくなっている。) 構造的制限、という読み方も出来るが、おそらく家族構成の増減に合わせているのだろう。住む人が目的にあった増築を行う。ここにメタボリズムの真髄を見たような気がする。

【見事な】つきみのいえ【曲解力】
わたしは最初、”つきみ(月見)のいえ”だと勘違いしていた。持ち主に返すときに「つみき(積木)はどうでした?」と聞かれて、初めて気付いた。「つきみ(月見)のいえ」だと思って書いた感想文を一部抜粋。いやー、バイアスがかかっていると、こうも見え方が違うものなのか・・・。

本作には夜のシーン(※1)はあるものの、月の描写は一切ない。しかし、不在によって存在を意識することは多々ある。枯山水が美しいのは、そこには山も水もないが故に、不在のものに思いを馳せることで現れる「はかなさ」のようなものを感じるから、と何かの本で読んだ。同様に本作も、つきみのいえと題することにより、鑑賞者に月の不在の存在とその意味を考えさせる仕組みになっている。建て増しで上にあがっていくにつれ、月との距離が短くなる。月見の家が月見でなくなるのは、その高さが月に到達した時である。これは何を意味するのか。もちろん解釈は何通りも出来る。月に達すれば、もう月を見上げる必要はなくなる。そして、これ以上は建て増しできない。積み重ねられた家は過去の思い出、人生の歴史である。思い出や歴史の堆積がこれ以上不可になる、というのは、かなり婉曲的に、生命の限界を意味していると取れる。人生や生命現象そのものが美しいと感じられるのは、そこに時間の有限性があるからである。仮に不老不死の肉体を手に入れても、人生における「一回性」というものを喪失してしまっては、生きていること自体、味気ないものになってしまう。

(※1)オトナな意味ではない。