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未来から来た古代人 折口信夫 (中沢 新一)

折口信夫に関する入門書が、彼の功績の割には圧倒的に少ないと思う。柳田国男南方熊楠の書籍はたくさん出版されていて、何か一冊読もうと思えば気軽に入門書や関連書籍を手に入れることができるが、折口信夫に関して言えば、書店によっては1冊も置かれていない事も珍しいことではない。本書は、学生の頃から折口信夫を愛読してきた著者が、若い人に彼のことを知ってもらうために書いた一冊である。もちろん、若い人に限らず、沢山の人に知ってもらえる方が良いので、私もささやかながら、この場を借りて協力したいと思う。

折口信夫とは誰か
折口とは何の接点もない私だが、一つだけ自慢できることがあるとすれば、生まれた場所がものすごく近い、という事だろうか。今はずいぶん離れたところに住んでいるが、折口の名を聞くと、幼少期の思い出まで連想してしまう。縁とは不思議なもので、本来その土地で出会う可能性が高かったのに出会わず、全く関係ない地で、いわば同郷の人と再会に近い形で出会う事が時折起こりうる。私が折口を知ったのは上京してから、何かを調べていたときに偶然知った。「出身地、浪速区敷津」。あら、ご近所さんじゃないの。自転車があれば、ものの2〜30分で行く事が出来る距離なのに、実家に住んでいた頃、私は彼の名を一度も聞いたことがなかった。今度帰省したら、訪ねてみたい。

さて、折口信夫とは、第一級の民俗学者である。それも、民俗学だけに限らず、詩や歌や小説、果てには映画のシナリオライターとしての才能にも恵まれた。あらゆる概念や観念を文字情報としてではなく自らの肉体で感じ取り、それらを組み合わせて新しいものを作り出す能力に富んだ、「表現の人」である。彼の文学的試みの最高峰として、傑作「死者の書」が挙げられるが、私はまだ読んでいないので、説明は後日。この本に関して教科書的な説明をしておくなら、いわゆる「悪いことをしたら死後、地獄に落ちる」といった倫理観は霊の世界には無く、また、時間という観念すら無い、と言う事を霊の視点に立って表現している小説、らしい。これまでの「生前の行いが死後に反映される」という観念をあざ笑うような、挑戦的試みである。しかし、死者の書の霊観念こそが、古代の日本人の精神であったと説く。

■「古代人」へのアプローチ
近頃「空気を読め」という言葉があるように、特定の個人の心情だけではなく、個人の集合の心情までも察する能力が求められている。誰もが空気や人の心を読むことが簡単に出来ていたら、この言葉はそれほど普及しなかっただろう。つまり、同席している人の心を読むのも一苦労なのである。そのような難しさがA級だとすれば、存在しない古代人の心情を察する難しさは、ウルトラS級である。折口はどのようにして「古代人」の心を探ったのだろうか。本書(P.14)より引用したい。

「古代人」の心を知るためには、文字記録の背後に隠されている真実を探さなくてはならないのである。そこで、文字記録されたものの行間を読んだり、ゆがめられているものをもとのかたちに戻したり、わざと言われていないことの中に重要な問題を見つけたりできなくてはならない。しかし文字の後ろ側に隠れている真実の「古代人」の心を読み取るためには、「古代人」がどういうものの考え方を好んだか、ということについて、全体としてあらかじめ直感的にとらえられている必要がある。

折口は人間の思考方法を、ものごとの違いを見抜く「別化性能」と、全く違うように見えるものから類似性や共通点を見つける「類化性能」の2つに分け、古代人について直感的にとらえるためには「類化性能」が重要だと言う。例えば、「月」と「女性」は全く関係のない存在であるが、両者とも「満ち欠けする」という共通点で結びつけることができる。この発想が「類化性能」なのである。そして、彼自身、類化性能の能力が発達していた。もうちょっと現代風に説明すると、ビジネス書で言うところの、物事を順序だてて説明していく「ロジカルシンキング」ではなく、水平に物事を捉えて新しいフレームワークを生み出す「ラテラルシンキング」が古代人へのアプローチにより重要だ、ということだろうか。彼は、論理だけでは到達できない「古代人」への新しいアプローチ法を提唱したと言えるだろう。

■「神」について
折口は柳田の弟子であるが、「神」についての視点が真っ向から対立していた。柳田は共同体の一体感を保つために、いわば内在的なものから「神」が発生したと主張する。先祖の霊が祖霊としてあがめられ、その観念が発達して共同体の神となった。一方折口は「神」は共同体の外からやってきて、異質な体験をもたらすものである、と言う。そのような「共同体の外からやってくるもの」を折口は「まれびと」と呼んだ。

さて、共同体の外、とはどこのことだろうか。これには2つの意味がある。1つは「魂のふるさと」。個人的な魂ではなく、民族的な集合記憶も含まれる。何らかの手段により長い年月の間に積み重ねられてきた民族的集合記憶が、ふとしたキッカケで意識の表面まで沸いてくることもあるらしい。ユングの提唱した「集合的無意識」を髣髴させる。科学の発達により、日本人や日本文化のルーツが南洋にあるとわかりつつあり、南方の海洋世界こそ魂のふるさとにふさわしいとする。さて、もう1つは「あの世=生命の起源」である。人間の知覚、思想、想像も及ばない世界が、つまり、「この世」以外にも世界があると古代人は信じていたのである。そして、この世とあの世をつなぐ存在こそが、「まれびと」である、と折口は言った。

沖縄には、人が死んだら海の彼方にある「ニライカナイ」という世界に帰るという信仰があり、折口は「まれびと」の考え方が正しいと確信した。

■芸能について
日本の伝統文化として名高い「歌舞伎」「能」「神楽」などの芸能についても、折口は見逃さなかった。そこにも「古代人」の精神が残っていると考えたからだ。日本の伝統芸能のルーツを大陸や朝鮮半島とする考え方は今でも主流であるが、「はじまりの芸能」と呼ばれる輸入芸能以前の存在を意識して、芸能史を再構成しようとした。いわば、現在の伝統芸能から「はじまりの芸能」と「海外から伝わった芸能」を分解して解釈する試みである。

折口には「貴種流離」という独特の価値観があった。今の世ではすっかり落ちぶれているが、本当は尊い身分なのである、というものである。私が「実は高貴な生まれで・・・」なんてふざけていうと、大変親切なK君は「病院行ったほうがいいよ」と勧めてくれる。今度会ったら「貴種流離」が何たるかを説明したい。

さて、皇族や貴族であった者が政権争いに負けて流浪の身となり、芸能で生計を立てるようになった、という文書を芸人や職人が所持しており、折口は大変共感したらしい。国家の発達に伴い、宗教が管理下におかれて形式が整えられ、古代人の儀式が重要視されなくなってきた。そういったものは下級の神官などによって演ぜられる「芸能」となり、古代の思考を忠実に生きようとした人たちは芸能者にならざるを得ない立場となった。つまり、古代人の思考は「芸能」の中でしか生きられなくなった。没落したものと同化すること。これが折口の古代人に対する芸能的アプローチである。

■さいごに
最初にも述べたが、折口の入門書が他と比べて少ない。最近はインターネットを使って情報を集められるようになったが、それは折口の名を知っていてこそ、可能となる。これだけ日本の民俗学界にとって重要な人物であるに限らず、その名を知られていないのは残念なことであるが、私は今後、このような良い入門書が出版され、もっと折口学を始めとして民俗学が幅広く認知されて、発達することを祈る。